世の中はお前と私という相對性の中で存在する.ある有名な科學者が發見した相對性原理を人達はとても偉大な法則であると考えているが, 相對性原理は死の原理に過ぎない.今, この世の中には相對性原理が支配している.だから,相對性原理の中で自然法則も解き,宇宙の法則も解いている. しかし,相對性という原理では人類が一つに還って行くことも出來ず,神樣の世を立てることも出來ない.
◇ 相對性原理は死の原理である
世の中はお前と私という相對性の中で存在する.ある有名な科學者が發見した相對性原理を人達はとても偉大な法則であると考えているが, 相對性原理は死の原理に過ぎない.今, この世の中には相對性原理が支配している.だから,相對性原理の中で自然法則も解き,宇宙の法則も解いている. しかし,相對性という原理では人類が一つに還って行くことも出來ず,神樣の世を立てることも出來ない.
Aという人とBという人の立場が互いに違うということが相對性の原理である.自分を意識して相手方を意識するのはまさに相對性の原理である.人の欲望というものは必ず相對性原理の中から出るようになっている.もと神樣であった人間が,今日のように墮落することになった原因は陰と陽という相對性に占領されることになったからである.
だから,この世の中は陰陽が支配する世の中になったからです.東洋でも,自然法則を解く爲には陰陽の法則で解いている.しかし, 東洋哲學, 周易でもいつかはこの陰陽の原理が無くなり,無極の時代が來ると言っている.それを無極大道と言うのである.
人間が墮落することになった最初の原因は陰と陽の爲である.だから,人間が神樣の心と考えと形象に還って行く爲には,陰陽が無くならなければならない.男と女の性が無くならなければならないし, お前と私を意識することが完全に無くならなければならない.
◇ 人が神なのである
人の考えが變わればこの宇宙が變わる.人がこの世の中の主體になるのです.陰陽が無くなれば,この世の中は天國になって地上天國と化す.まず,死ぬという考えを捨てなければならない.すべての人が年を取れば死ぬだろうと考えるから,すべての人が死ぬのである.年を取るから老けるだろうと考えるから老けるのである.年を意識せず,「私は若くなる」 という確信の中で動けば,その日から若くなるのである.
世の中でも 「心を抱く通り成り立つ」 と言われている.ある哲學者も 「志がある所に道がある」 と言われた.私が軍人將校時代,若い靑年達に勉强を敎える時に,必ずこのような精神を植えこんだのです.「泰山が高くても空の下の塚である.登ってまた登れば, 登れないはずがないのに,人が登れず塚だけ高いと言う.」全ての學生達にこのような確信を持たせて試驗を受けさせるから,全學生達が90点,100点を取ったのである.
だから,確信を持って行なうことと確信を持たずに行なう事とは天と地の差ほど違うのである.確信をするには最後まで耐え信じなければならない.何時間かをしてみて氣がわり行き來して,出來ないと言うなら確信がもてない事です.確信出來始めればその次の段階として委ねる段階が來る.確信するのですべてを委ねることになるのです.
まるで,幼い子供が母に抱かれる時, すべてのことを委ねて安らかてあるように.神樣にすべてを委ねた人は神樣とその心が同じに動くようになっている.故に,神樣のみ旨どおり從順する者,彼が卽ち天の天軍であり,天使達なのである.だから,自由律法は,卽ち,軍法と同じなのである.指揮官がC高地に行けと命令を下せば, C高地に行かねばならない.
‘A高地に行かねばならないのに,どうしてC高地に行けというのだろうか?’と不平不滿顔でまごまごしていては,敵軍に捕虜として捕らわれてしまう.勝利者である神樣は,魔鬼を相手に數千年戰い續けてお勝ちになった神樣であられるから,魔鬼がどんな形で攻擊するのか,そのような時はどのように迂回攻擊をしなければならないのか明確に見ておられるのです.だから,皆さんが神樣の側に立って魔鬼と戰って勝つ爲には,勝利者の命令どおり動いてこそ,その戰爭で勝利を收めることが出來る.
◇ 確信は神樣を高度に思慕する中で
‘自分’ と ‘死の神’が,卽ち, 魔鬼である.魔鬼を殺す能力と方法と秘訣は勝利者しか持って居ない.この道は確信と從順だけで成し遂げられる.
高度に神樣を思慕する者にはおのずから確信の心が湧く.神樣に體と心と生命を委ねたら,すべてが自分の物ではなくて神樣の物になるのである.故に,ひたすら,神樣の處分だけを待つ事である.
神樣がなさるとおりに永遠に委ねた狀態,それが,卽ち,神樣の肢體になった狀態なのである.神樣の肢體が,卽ち,神樣である.神樣になる秘訣が,卽ち,これである.「神樣の中に自分が居て,私の中に神樣がおいでになった」 この狀態がまさに神樣になった狀態である.そうなったとしても立派なものではない.元來の狀態に戾っただけのものであるから,人として基本になる狀態なのである.
神樣は永生の神であるので,永生の確信を持つのは,一番基本的な心である.朝起きる瞬間, 胸には永生の希望をたっぷり抱いてお腹の中には永生の確信を堅めて入れこんで下さい.「私は死なない.私は神樣になってしまう. 私は若くなりつつある.」 と每朝, 確信を堅めて一日一日を暮らす人は,決して死なないのである.永生の確信自體が神樣の心なのである.
しかし,私という意識自體がまさに魔鬼の心であるから,巧妙にこのような永生の確信を霧散させようと否定的に考えさせるのである.そのような 「私という意識」 の心に勝って永生の確信の上に堅く立っている人は決して魔鬼が犯すことが出來ない.心の中に永遠に生きることが出來るという確信がぎっしり滿ちている時に,永遠に生きる道が開けることであり,確信がない者は永生を享受することが出來ない.
だから, 永生の確信を持っている者には,說敎も必要ではなく,特別な知職も要らない.皆さんが確信を持つ時には,共に贊美歌だけを歌えばいいのである.贊美歌を歌うということは,永生の確信に滿ちている心を歌うのである.
◇ 恩惠を受けて血が變わってこそ確信が持てる
今日まで多くの先知聖賢が出て ‘欲張るな!’ ‘自我を常に捨てろ’ ‘無我の境地に至ってこそ解脫する’などの良い言葉をたくさん言われたが,人びとはこのようにもし,あのようにもしてみたが無我の境地に至ることは出來なかった. それはどうしてだろうか?卽ち, 「私」 がしようとしたからである. 血が 「私」 という魔鬼の血であるから,出來るはずがなかったのである.
◇ 血が變わらなければならない
神樣の血に變わった勝利者が注いで下さる神樣の恩惠を受けなければならない.血が變われば心が變わるのである.神樣の心に變わった者に欲はない.「私というもの」 がないからである.それを指して ‘聖靈に生まれ變わった’ というのである.
人自體が元來の神樣であったことのように, 人の體の中には神樣の成分が入っている.皆さんが再び神になる可能性は99%である.皆さんは誰でもすべて幸せを憧れていて,惡いものより, 善良なものが好きになり,永遠に生きたい心が存在する.それがまさに神樣の心である.天國がまさに義人の心であり,地獄がまさに罪人の心である.*
飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修