私の分身が甘露になって降りるから, その甘露が人間の毛孔に入り人間はすべて神になるのです. 私が驛谷の勝利祭壇に立てば驛谷の祭壇にだけ甘露が降りるのではないのです.現在, 全國の祭壇, 日本, 英國, 米國の祭壇がある所には全て私の分身が共にするからそこにも甘露が降りるのです.
祭壇がある所では何處でも甘露が降りているのです
人の中に流れている血の年は六千歲です. 魔鬼の靈が六千歲も年を取っているという意味です. 六千歲になっている魔鬼が, 人びとを巧妙に技術的に困惑させ續けた果てに人びとを死に至らしめるのです.事實, 世の中に魔鬼より頭がいい者はいないのです. その魔鬼の知能をしのぐ存在が救い主です.
救い主が魔鬼を殺すことが出來るのは, 魔鬼の知能をしのぐ高い段階に昇っているからであり, そうでなければ魔鬼を殺す事が出來ないのです. 全宇宙を治める魔鬼の大將を殺して無くしたので勝利者になったのであり, 魔鬼の大將が座っていた權座に今は私の本體が座っているのです.
私は台風も韓國に上陸させないようにし, 共産主義もなくし, その上, 每年降る梅雨も防ぎ, 每年豊年にさせ, また, 北朝鮮と韓國の間に戰爭が起こらないようにしたのです. そのように風雲造化を初め, 事物を自由自在にするのは私が能力を持っているからであり, 能力を持っていなかったなら絶對に出來ない事です. 私がそのような能力を持っていなかったら僞救い主です.
もし, 私が僞救い主なら甘露を降ろす事が出來ないのです. 甘露が降りるということは眞の救い主である事を證明する事だけではなく, 全知全能者のあかしなのです. 全知全能者でなければ露は降りないのです. 甘露は勝利者の分身です. 勝利者の靈の分身です.
私の分身が甘露になって降りるから, その甘露が人間の毛孔に入り人間はすべて神になるのです. 私が驛谷の勝利祭壇に立てば驛谷の祭壇にだけ甘露が降りるのではないのです.現在, 全國の祭壇, 日本, 英國, 米國の祭壇がある所には全て私の分身が共にするからそこにも甘露が降りるのです.
この道(どう)は神の心で步む道です
この道は心で步む道であるといいました. 心が神の立場で動いてこそ, それが卽ち神に向かって道を步んでいることであり, 魔鬼の立場, 卽ち, 私という意識の立場で考える事は全て魔鬼の心です.
だから, 私という者が笑えばそれは魔鬼の笑いです.本當に道の修鍊を行なう人はその心の位置が神にあるのか, 魔鬼にあるのかという事を分別出來てこそ道の修鍊を始める事になるのです.
その境地を發見出來ない人は道の修鍊の始まりにも入っていないことです. だから, 私がこの世の中には宗敎がなかったというのです.宗敎というのは卽ち神の中に宗敎があり, 永遠の命の中に宗敎があることであり, 死の中には宗敎がないのです.「私という意識」 が考える宗敎は宗敎ではないのです.また, 「私という意識」 が考える學問も學問ではないのです.
神の立場で知って考えるのが宗敎であり, 死ぬ業, 人が死ぬ宗敎團體は宗敎ではないのです. 死ぬのは確かに魔鬼の業です. 魔鬼は死の神なので, 死の神によって死ぬことは眞理の宗敎團體にはなれず, 神の永遠の命, 永生の團體になる事が出來ないのです.だから, 死ぬのは宗敎とは言えず, 死なずに永遠に生きる業が宗敎の業なのです. 宗敎なら罪が何であるか知るべきであり, 又, 義が何であるかを知るべきです.
義が何であり, 罪が何かであるかを知ってこそそれが宗敎です. 佛敎のお坊さん達が木魚を叩く事も, 自分自身が道の修鍊をして, 佛樣におじぎをするのも自分自身がおじぎをすることなのです. 自分自身がすることを知って行なうのは, まさに魔鬼の仕業です.
自分自身が魔鬼だから, 自分自身がさせるとおり行なうのではなく, いつも神樣が私という魔鬼を引っぱって通いながら神樣が主宰をなさってこそ, それが道の修鍊をして磨く事になるのです. これを知っている人がいないのです. だから牧師やお坊さん達が道の境地に至ることが出來ないのです. 道の境地に至っていない事は眞の宗敎とは言えないのです ‘私という主體意識'が 「善惡を知る木の實」 であるという事實を皆さんに救い主が宣布しているのです.
木のように心が動かない狀態でも成し遂げられた段階ではない
この世でただ一人, 私が ‘私という主體意識'をなくしてしまう方法を皆さんに敎えているのです. その方法は「反對生活」 をする事です. 反對生活というのは 「私」 という者が仕事を嫌えば仕事を熱心にし, 「私」 という者が誰かを憎めば, その憎らしい人を心から好きになり, 眞心から愛するように心を變えて反對生活を續けて行なえば, その憎らしい感情が無くなるのです.
これが, 正しく第1次段階の道の境地に到達した人が感ずる心の變化です. 卽ち, 人間の心が消えるのです. それが道の修鍊をする人の基本姿勢です. そうなれば, 大變な仕事をしても大變に感じる事がなく, いくら苦しくても, 苦しく感じる事もなく, ひざまづいて座っても膝が痛むことさえ感じないのです. 何らの感じが來ないのです. まったく木のようになってしまうのです.
そのようになったとしてもそれが成し遂げられたのではない. まったく木のようになった事で成し遂げられたと思えばそれは錯覺です. それは變化の手始め, 卽ち, 魔鬼の牢屋に閉じこめられていた神樣の靈が, 魔鬼を殺してしまって, 靈的な墓から解放されて出て, 私という主體意識の席に座れば聖靈に生まれ變わった事になり, 復活したことになるのです.
神樣の心を抱いてこそ神樣になることであり, 神樣の中で行なってこそ神樣になるから, 卽ち, 聖靈になってこそ始めて救いを得る事になるのです. 「生命の木の實」 を食べてこそ救いを得るという話も正しく, 信仰によって救いを得るという話も正しいが, ここでいう信仰とは痛い狀況ても痛い事を感じず, 大變な事でも大變と感じない事, 卽ち, 心が動かない事なのです.
良いことを見ても好きにはなれず, 惡いことを見ても惡く感じないのです. 他人がどのような仕業をしても關心がなくなるのです. そのため 「お節介をする淫亂罪」 を犯すことがなかったのです. 兄弟が何かをすることに干涉するようになれば, それがお節介をする淫亂罪にあたるのです. そして, 人間の習性として過去をしきりに思う癖があるのに, 私は過去を思い出すことも出來ない境地に至ったのです.
それが, 3ケ月で出來上がりました. その位, 私は執着力が强いうえ, 一度しようと思えば, 夜も寢ずにやりこなしてしまう性格の持ち主だから, 過去を思い出そうとしても思い出すことが出來ない境地に3ケ月で仕上がったのです. それで, 私がその時, 成し遂げられたと思ったが, そうではなかったのです. 矢張り, まだまだ仕上がりには遠かったし, また, 次の始まりに過ぎなかったという事を悟るようになりました.
その次には, 神樣が 「家族を考える事が關心の淫亂罪だ」 と話されるので, 理解出來ない事だったが, 神樣のおっしゃる事なので從順しました. そして, 少し經った頃, 私は家族を思いたくても思い出す事が出來ない境地に至ったのです.
誰をも私の身のように, 誰をも私の神樣のように
その次, 私は怒りたくても怒りが出ない境地に至りました. 自尊心が出ると, 自尊心の淫亂罪にかかるのです. 私は自尊心の淫亂罪にも勝ったが, その方法は, 自分の目に見える人達全てを自分の上司や神樣として考えたのです.
幼い子供だけでなく, 誰でも神樣であると思うようになると, まさしく自尊心の魔鬼が死んでしまったことです.理由もなく私をいじめたりしても何らの考えも出ない時, 勝利者になった事なのです. その時がまさしく 「自分に勝った」 ことになるのです. これが道の修鍊を磨く事なのです. 自分に勝ち續けて, 結局, 私は勝利者になってしまったのです.*
飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修