私自身が覺りを得た時, 先祖の靈も共に佛と化します

宗敎の根本目的は眞理俱現であり,卽ち,苦しみの中で踏み迷う人間を救濟する事にあります.しかし, 佛敎やキリスト敎などでは,生きている現世で人間を救濟する考えをせず,誰を信じれば死んで天國に行くとか,また極樂に行くとか云いながら,宗敎の本來の目的を喪失して安逸に陷っているのです.人間は今直ちに苦しみの中から拔け出すことの出來る何かが必要です.

◇ 心がけどうりに血が變化する

宗敎の根本目的は眞理俱現であり,卽ち,苦しみの中で踏み迷う人間を救濟する事にあります.しかし, 佛敎やキリスト敎などでは,生きている現世で人間を救濟する考えをせず,誰を信じれば死んで天國に行くとか,また極樂に行くとか云いながら,宗敎の本來の目的を喪失して安逸に陷っているのです.人間は今直ちに苦しみの中から拔け出すことの出來る何かが必要です.

旣存のすべての宗敎は苦しみと惱みの中で喘いでいる人間に正しい方向提示をせず,かえって誤った價値を注入させるために現人類が危機に置かれる狀態を作るのに先き立ったのです.だから,私はこの世には學問も宗敎もなかったと云っているのです.ひたすら無馱な妄想を强要する僞宗敎の奴隷狀態の中から拔け出すことが出來なかった者が今の人類なのです.

死んだ後に天國に行くという宗敎はすべてが僞宗敎であり,そのことを敎えて善良な人びとからお金を取ることは詐欺です.この世のすべての宗敎がこのようであるから,眞の宗敎がないと云うことです.生きている現世を天國に作らねばならず,死にかけている人間を死なないようにすることが眞の宗敎でなのです.眞理は變わらないものなので,變わる全ての中には眞理は含まれていないのです.

人間が死ぬこともなく變わらない身體に變わってこそ, まことの眞理が具現されるのです.聖書は人間が永生することが出來るとはっきり論じています.人間が永生體に變わる時に眞理が具現されることで宗敎が完成されるのです.だから,人間が死んで靈魂が身體を離れ天國や地獄に行くと云う言葉は雲をつかむような臆說に過ぎないのです.

人間の身體がすなわち靈魂です.身體を離れて靈魂は存在しないのです.これを聖書的にまた科學的に私は論じています.聖書に は 「生命が靈である」 (ヨハネ1章1:4)と書かれています.また,箴言4:23には 「生命の泉は,心から流れ出る」 と云い,生命がすなわち心であると記されています.また,「血がまさに生命である」 (レビ17:11) 「生命である血のままでその肉を食べてはならない」 (創9:4)と書かれているように血がまさに生命なのです.

血が肉と體になるので,身體が死ねば生命が死ぬことです.だから,靈魂=生命=心=血=身體になります.血の作用がすなわち心と云うことは, 血液型のA型の人は性格がきちょうめんで,B型の人は社交的で,O型の人は强情で過激な性格を持っていると云われている事から見分けることが出來ます.

狐のような顔つきの人は狐のような仕業をし, いたちのような顔つきの人はいたちのような仕業をします.このように心がまえによって血が變わって顔付きも變わります.よく怒ったり心配を多くすれば顔にシキが出來,顔つきも變わります.魔鬼の心を抱けば魔鬼の顔になり,神の心を抱けば神になるのです.

◇ 死んだ人の靈魂は子孫の中にいます

身體はすなわち生命であり靈魂であるから,一人の人間が死ぬ時,その身體は死ぬが靈魂はその人の子孫の中にもあるので,その子孫の中でその人の靈魂は生きているということです.死んだ先祖たちの靈魂がまさに生きている子孫の中にいるということです.卽ち,死んだ者の來世がまさに生きている人の現世なのです.靈魂が別の處に行っているのではありません .子孫の中に死んだ者の靈魂が全て入っています.だから,子孫が立派になれば先祖も立派になるのです.

子孫がよく食べると先祖がよく食べるということになります.死んだ先祖の祭を別に行う必要がなく,子孫がよく食べればよいと言うことです.イエスが生きている人びとに “墓のような人生たちよ”と話したのは,生きている人の中に死んだ人たちの靈がうようよしているので墓だと言ったのです.“わたし”が考えていることは,實際は死んだ人たち,卽ち魔鬼の塊が考えていると言うことが出來ます.

そして,その魔鬼たちが率いたとおりに動く場合が多いのです.だから,人が罪を脫いで義人になれば死んだ先祖たちもすべて救われるのです.自分の血の中に先祖たちの靈があるので自分が神になれば先祖たちも全て神になります.佛典にもこのような句節があります.

「もともとの心を取り戾してこの自分が佛樣になれば先祖も自然にそのようになるので,生きている人も,死んだ人も全てが佛國土に入ることを…」 と.だから,自分が罪を無くし輪廻の車輪の中から拔け出したとしたら,死んだ先祖も全て佛樣になるから,これこそ最大の親孝行になります.皆さんが勝利祭壇に出て,生き彌勒佛, 正道令, 救い主である私に會うことが出來るのは皆さんが立派であるからではないのです.皆さんの身體の中の先祖がこちらへ率いて來たのです.

だから祖先代代の三代が積德を施した一家の子孫でなければ生き彌勒佛に會うことも出來ず, その名前を知り得て唱えることは出來ないと涅槃經,格菴遺錄に書かれています.釋迦三千年後に彌勒佛樣がこの世の中に現れて20年も過ぎているが,まだこの事實を知らない人が大部分であるからこの話は事實なのです.

ところが,佛敎では人が死ねば彼が作った業報によって牛になったり, 鳥になったり, ほかの獸になったりすると敎えているがこれは,誤った言葉なのです.人が死んで別の獸になることではなく,彼の靈魂が子孫の中に入ることなのです.だから子孫が先祖たちの顔付きと性格などに似ているようになっているのです.

また,先祖が犯した罪も遺傳されるのです.だから,自分が犯した罪は必ず罰を受けるようになっているし,自分が積んだ德行も必ず報償を受けるようになっています.當代に受けなければ子孫が必ず受けるのです.ところが,子孫の身體の中に先祖の靈がいるので, 子孫が苦しめられれば, 先祖も一緖に苦しめられるようになっているし,子孫が立派になって嬉しい時, 先祖の靈も一緖に喜ぶことになるのです.

◇ 人の中の惡いところを除去して天地開闢のみわざをする

“この世が大變つらい”と言い,死ねば樂ではないだろうかという心を抱いて自殺をする人がいます.しかし,死ねば終わりという考えは勘違いなのです.自分が死ぬことによって全てが終わることではないのです.死ぬことが卽ち地獄です.死んだ後の苦しみは言葉では表現しがたいほど辛いものです.自分の靈が息子の中にいるのに,その息子が自分の望む通りに動いてくれないことです.

それは言葉に言えないほど息苦しいのです.言えないほどの苦しみと惱みと心の傷の中にいるものが死んだ人の靈なのです.だから,どんなにしてでも死んではならないのです.ところで,子孫の中で誰かが解脫して永生身體に變われば死んだ先祖たちの靈がすべて生き返った事になるのです.だから,我われの先祖たちはどのようにしてでも代を繼ごうと心を碎いたことです.

自分の血が跡絶えることなく子孫代代に續いて行きその子孫が彌勒佛に會って解脫する時,自分も共に解脫しようとする念願が下敷きになっていることです.涅槃經を見れば,釋迦が入滅三千年後 (正確に三千七年) 彌勒佛が降臨されるので, 東方の朝鮮の地に羊の年に來られ,また曺氏の名前で來られると記錄されているのです.彌勒佛が來られたら,全ての衆生を解脫させ,全て佛と成させ, 地上佛國土,地上天國を建設し, その中でもはや死ぬことなく永遠に生きるようにすると言う內容が書かれている.

また,その時は全ての衆生が生老病死の輪廻から拔け出すので再び生まれることもなく,死ぬこともないと記錄されている.今,生き彌勒佛である私が死を滅ぼしています.人が死ななくなるから子孫を殘すという切實さもなくなり,子供を生む必要が無いのです.誰でも佛になれば男性と女性の區別が無くなります.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

自分の對象者に愛で勝ってこそ

盡力して,努力することがあってこそ變化が現れる事であって, 盡力して努力することがなければ變化が起こらないのである.心を碎いて躍起になってこそ成し遂げられるのである.生活の中で,家庭で勝たなければならない.家庭で自分に勝ち續けて, 家族達が心から尊敬するほどに律法を完全に守る生活を續ける時にようやく勝利者になる.

「お主, 神樣, 深く知るこの驚くべき恩惠, 天國の樂しみが每日新しい」この贊美歌を, いつも歌って, また歌い,また歌っても私にはその贊美歌が一瞬一瞬新しかったのである.だから,贊美歌を夜通し歌っても一時間も歌ってはいなかった感じであった.贊美歌を歌い終わってみればもう夜明けになり,贊美歌をまた歌い終えてみれば日が旣に暮れていた.

いつ日が暮れるか,いつ夜が明けるかが分からないほど,いつも喜びと樂しさの中で暮らすのである.誰も知らないこのような喜びの中で,喜びの思いに浸って暮らしたので,瞬く間に1年,10年,50年が過ぎた.これは, 神樣の恩惠,神樣の聖靈を受け取った者でなければこの喜びを語る事が出來ない.

◇ 話の中には意味があるが,その音聲の中にさらに大きな意味がある

犬は犬の考えで犬の聲を出し,牛は牛の考えで牛の聲を出す.だから,犬に幾ら良い說敎をしても, 犬は犬式で聞く.自分の主體靈,卽ち,犬のような主體靈を捨てなければ神樣のお話を聞き分けることが出來ない.この眞理を理解することが出來ないのである.

だから自分の主體靈が神樣の靈であるか,魔鬼の靈であるかによって聞く段階が違い, 聞く方法が違い,また,その考えが違うのである.だから,完全に委ねなさいと言うのである.神樣に完全に委ねると,神樣がその魔鬼の靈である自分の主體靈を殺して,神樣の靈を注いで下さるのである.その後にもお話を聞けば,そのお話があまりに言妙で, 自分自身も知らずに感嘆する.

そのお話に意味があるのではなく,音聲の中に意味があるのである.神樣の靈を受けた者は,音聲の中でもう深い意味に氣づくのである,だから,魔鬼の靈を持っているものは如何に聞いて見ようとしても聞くことが出來ない.だから,完全に委ねようと心を碎いて躍起にならなければならないのである.ところで,神樣に委ねることを自分で委ねてはいけません.

「わたし」という靈が魔鬼の靈であるから,自分が委ねようとすることは, 魔鬼が委ねようとする事になるのでいけない.わたしも初めは自分が委ねようと心を碎いて躍起になったが成就しなかった.だから最後には「神樣が委ねて下さい.神樣が泣き叫ぶお祈りにして下さるようお願いします.そして,私が祈るのではなく,私が望むのではなく,神樣が祈って下さい.神樣が泣き叫んで下さい.神樣が完全に委ねて下さい」と祈ったのである.

このように泣き叫んで訴えるにもその段階がある.1段階に訴える段階があって,2段階,3段階の段階があって,續けて4段階,‥‥‥9段階,10段階の訴える段階がある.

だから,その訴える段階によって訴える主體靈が變わるのである.このような靈の段階が分からない者,靈の分別が出來ないものは,いくら努めてみてもだめである.

盡力して,努力することがあってこそ變化が現れる事であって, 盡力して努力することがなければ變化が起こらないのである.心を碎いて躍起になってこそ成し遂げられるのである.生活の中で,家庭で勝たなければならない.家庭で自分に勝ち續けて, 家族達が心から尊敬するほどに律法を完全に守る生活を續ける時にようやく勝利者になる.

今,皆さんが確かに知るべきことは, 皆さんの對象者がまさに皆さんの夫やら夫人であるというのです.皆さんは皆さんの對象者に勝たなければならない.家庭に對象者がいて職場にも對象者がいる.職場に行けばなんとなく嫌な人がいるが,彼が卽ち對象者なのである.

その對象者に勝たなければならないが,拳で戰って勝つことではなく,愛で勝たなければならない.眞心からその人を愛し, その人が夕飯を買えと言えば買ってあげ,晝飯を買えと言えば晝飯を買ってあげながら. 下男のその又下男の役目をしなければならない.そのようにすれば, まさにその人に勝つようになって勝利者になるのである.その對象者が皆さんを心から尊敬することが出來るようになってこそ勝利者になるのである.

◇ 私を憎む相手を眞心から尊敬することが勝つ秘訣

對象者は多くはない.自分の周圍に一人か,二人が居るのである.だから,その對象者を探して勝たなければならない.妬んで嫉妬していた人が眞心から皆さんを尊敬して好きになった時に勝ったことになる.勝ったなげればならない.皆さんが實際に家庭で勝ち,社會で勝ち,又, 祭壇に出ても勝たなければならない.祭壇にも對象者はたくさん居ることである.

どうしてそうなるのか,見ただけで食欲が無くなるほど憎い人がいる.このような不滿な考えは「私」という意識の魔鬼がなす業である.だから,憎い相手を心から尊敬して心から愛すれば「私」という意識の魔鬼は死ぬのである.これが,まさに恩惠を守る秘訣であり,「私」という意識の魔鬼を殺す秘訣なのである.對象者は遠いところに居るのではなく,近い所にいる.

だから,一番近い人,その人が卽ち對象者なのである.その對象者に勝つとき,彼と完全に友達になったとき, 私ではなければだめだというほどになった時が勝ったことになる.皆さんが言葉だけで“信じます”“自由律法を守ります”というのはむだである.對象者があちら,こちらにいる事はまさに自身の中の魔鬼の爲であり,自分の中に魔鬼がなければ仇はいない.憎い人が居なくて全ての人が好きになるのである.自分の中に魔鬼がいて,その魔鬼が相手の中に入って私を苦しめるのである.

「あいつは何時も私を嫌がる」とか,「あいつは何時も私の缺點をあげて言う」と目でにらみ付けると,それからは更に大きな魔鬼が自分を苦しめて困難にさせようと振舞うのである.このような魔鬼に勝つ秘訣は勝利者だけが知っている.勝った者ではなければ勝つ秘訣は分からない.

では, 勝利者はどのように勝って來たか.口を閉じて耐え拔く事だけをしたのか.そうではなく,愛で對象者に勝ったのである.對象者と一緖にはたらく時, 對象者に力が要る時には力になってあげ,又, 對象者がしなければならない仕事を代わりに骨を折ってはたらいてあげたりした.愛に死なない魔鬼はないのである.

◇ 勝利者の靈は常に謙遜で犧牲的な靈である

永遠無窮に榮光を享受しながら生きるものは”わたし”という意識ではなく,まさに犧牲の靈,良心の靈,神樣の靈なのである.良心の靈が共にしてこそ永遠無窮に生きることが出來るし,自分しか知らない利己的な靈は永生することが出來ない.これは魔鬼の靈であるからである.

譽められることを望む靈,榮光を受ける事を望む靈,自分の利益しか知らない靈,このような靈は滅亡の靈である魔鬼の靈なので永生を受けることが出來ない.だから,神樣のために何時も犧牲的に, 又, 奉仕的に暮らす人が永生を得るのである.

今日,神樣の爲に何をするか,今日は何を以て神樣にその恩返しをするかという考えでぎっしり滿ち溢れている人は,自身も分からないうちに神樣の爲の行動をとるようになる.また兄弟が誤って永生の道から遠くなろうとする時, 密かに力を與えて神樣の前に傾くように手傳ってあげるのである.このように神樣に向かった忠誠心が滿ちているので,自ずからそのように動くのである.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

永生に對する確信が, 卽ち,神樣の心である

世の中はお前と私という相對性の中で存在する.ある有名な科學者が發見した相對性原理を人達はとても偉大な法則であると考えているが, 相對性原理は死の原理に過ぎない.今, この世の中には相對性原理が支配している.だから,相對性原理の中で自然法則も解き,宇宙の法則も解いている. しかし,相對性という原理では人類が一つに還って行くことも出來ず,神樣の世を立てることも出來ない.

◇ 相對性原理は死の原理である

世の中はお前と私という相對性の中で存在する.ある有名な科學者が發見した相對性原理を人達はとても偉大な法則であると考えているが, 相對性原理は死の原理に過ぎない.今, この世の中には相對性原理が支配している.だから,相對性原理の中で自然法則も解き,宇宙の法則も解いている. しかし,相對性という原理では人類が一つに還って行くことも出來ず,神樣の世を立てることも出來ない.

Aという人とBという人の立場が互いに違うということが相對性の原理である.自分を意識して相手方を意識するのはまさに相對性の原理である.人の欲望というものは必ず相對性原理の中から出るようになっている.もと神樣であった人間が,今日のように墮落することになった原因は陰と陽という相對性に占領されることになったからである.

だから,この世の中は陰陽が支配する世の中になったからです.東洋でも,自然法則を解く爲には陰陽の法則で解いている.しかし, 東洋哲學, 周易でもいつかはこの陰陽の原理が無くなり,無極の時代が來ると言っている.それを無極大道と言うのである.

人間が墮落することになった最初の原因は陰と陽の爲である.だから,人間が神樣の心と考えと形象に還って行く爲には,陰陽が無くならなければならない.男と女の性が無くならなければならないし, お前と私を意識することが完全に無くならなければならない.

◇ 人が神なのである

人の考えが變わればこの宇宙が變わる.人がこの世の中の主體になるのです.陰陽が無くなれば,この世の中は天國になって地上天國と化す.まず,死ぬという考えを捨てなければならない.すべての人が年を取れば死ぬだろうと考えるから,すべての人が死ぬのである.年を取るから老けるだろうと考えるから老けるのである.年を意識せず,「私は若くなる」 という確信の中で動けば,その日から若くなるのである.

世の中でも 「心を抱く通り成り立つ」 と言われている.ある哲學者も 「志がある所に道がある」 と言われた.私が軍人將校時代,若い靑年達に勉强を敎える時に,必ずこのような精神を植えこんだのです.「泰山が高くても空の下の塚である.登ってまた登れば, 登れないはずがないのに,人が登れず塚だけ高いと言う.」全ての學生達にこのような確信を持たせて試驗を受けさせるから,全學生達が90点,100点を取ったのである.

だから,確信を持って行なうことと確信を持たずに行なう事とは天と地の差ほど違うのである.確信をするには最後まで耐え信じなければならない.何時間かをしてみて氣がわり行き來して,出來ないと言うなら確信がもてない事です.確信出來始めればその次の段階として委ねる段階が來る.確信するのですべてを委ねることになるのです.

まるで,幼い子供が母に抱かれる時, すべてのことを委ねて安らかてあるように.神樣にすべてを委ねた人は神樣とその心が同じに動くようになっている.故に,神樣のみ旨どおり從順する者,彼が卽ち天の天軍であり,天使達なのである.だから,自由律法は,卽ち,軍法と同じなのである.指揮官がC高地に行けと命令を下せば, C高地に行かねばならない.

‘A高地に行かねばならないのに,どうしてC高地に行けというのだろうか?’と不平不滿顔でまごまごしていては,敵軍に捕虜として捕らわれてしまう.勝利者である神樣は,魔鬼を相手に數千年戰い續けてお勝ちになった神樣であられるから,魔鬼がどんな形で攻擊するのか,そのような時はどのように迂回攻擊をしなければならないのか明確に見ておられるのです.だから,皆さんが神樣の側に立って魔鬼と戰って勝つ爲には,勝利者の命令どおり動いてこそ,その戰爭で勝利を收めることが出來る.

◇ 確信は神樣を高度に思慕する中で

‘自分’ と ‘死の神’が,卽ち, 魔鬼である.魔鬼を殺す能力と方法と秘訣は勝利者しか持って居ない.この道は確信と從順だけで成し遂げられる.

高度に神樣を思慕する者にはおのずから確信の心が湧く.神樣に體と心と生命を委ねたら,すべてが自分の物ではなくて神樣の物になるのである.故に,ひたすら,神樣の處分だけを待つ事である.

神樣がなさるとおりに永遠に委ねた狀態,それが,卽ち,神樣の肢體になった狀態なのである.神樣の肢體が,卽ち,神樣である.神樣になる秘訣が,卽ち,これである.「神樣の中に自分が居て,私の中に神樣がおいでになった」 この狀態がまさに神樣になった狀態である.そうなったとしても立派なものではない.元來の狀態に戾っただけのものであるから,人として基本になる狀態なのである.

神樣は永生の神であるので,永生の確信を持つのは,一番基本的な心である.朝起きる瞬間, 胸には永生の希望をたっぷり抱いてお腹の中には永生の確信を堅めて入れこんで下さい.「私は死なない.私は神樣になってしまう. 私は若くなりつつある.」 と每朝, 確信を堅めて一日一日を暮らす人は,決して死なないのである.永生の確信自體が神樣の心なのである.

しかし,私という意識自體がまさに魔鬼の心であるから,巧妙にこのような永生の確信を霧散させようと否定的に考えさせるのである.そのような 「私という意識」 の心に勝って永生の確信の上に堅く立っている人は決して魔鬼が犯すことが出來ない.心の中に永遠に生きることが出來るという確信がぎっしり滿ちている時に,永遠に生きる道が開けることであり,確信がない者は永生を享受することが出來ない.

だから, 永生の確信を持っている者には,說敎も必要ではなく,特別な知職も要らない.皆さんが確信を持つ時には,共に贊美歌だけを歌えばいいのである.贊美歌を歌うということは,永生の確信に滿ちている心を歌うのである.

◇ 恩惠を受けて血が變わってこそ確信が持てる

今日まで多くの先知聖賢が出て ‘欲張るな!’ ‘自我を常に捨てろ’ ‘無我の境地に至ってこそ解脫する’などの良い言葉をたくさん言われたが,人びとはこのようにもし,あのようにもしてみたが無我の境地に至ることは出來なかった. それはどうしてだろうか?卽ち, 「私」 がしようとしたからである. 血が 「私」 という魔鬼の血であるから,出來るはずがなかったのである.

◇ 血が變わらなければならない

神樣の血に變わった勝利者が注いで下さる神樣の恩惠を受けなければならない.血が變われば心が變わるのである.神樣の心に變わった者に欲はない.「私というもの」 がないからである.それを指して ‘聖靈に生まれ變わった’ というのである.

人自體が元來の神樣であったことのように, 人の體の中には神樣の成分が入っている.皆さんが再び神になる可能性は99%である.皆さんは誰でもすべて幸せを憧れていて,惡いものより, 善良なものが好きになり,永遠に生きたい心が存在する.それがまさに神樣の心である.天國がまさに義人の心であり,地獄がまさに罪人の心である.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

完全に神樣だけを思慕しなければならない

この世の中で, 一番必要な,いなくてはいけない人になる爲には,人生に對する價値觀と目的が明らかでなくてはならない.目的がない人は人生の價値觀が確かではないから,多くの人達に迷惑をかける生活をするので,この世の中に存在してはいけない人になる.

人には誰に限らず生の目的がある.目的がない人は可哀相な人であり,不幸な人であり,生の價値を感じない人である. だから,この世の中に存在してはいけない者でもある.

聖靈に生まれ變わってこそ卽ち, 神樣となって再び生まれ變わってこそ救われる.

この世の中で, 一番必要な,いなくてはいけない人になる爲には,人生に對する價値觀と目的が明らかでなくてはならない.目的がない人は人生の價値觀が確かではないから,多くの人達に迷惑をかける生活をするので,この世の中に存在してはいけない人になる.

人が目的を達成する爲には生活の方便と方法がある.今,皆さんは恩惠を受けて永生を勝ち取る爲の目的でこの席に來られた.だから,永生を勝ち取る爲にはどうすべきなのかということを私は時間ごとに論じているのである.聖書や佛典の中には救援論が明らかに記錄されているが,この世の中の人達はこれを知らなかった.

しかし,今日の勝利者であり,この世の人びとを救う救い主になる私が,皆さんが幸福に暮らす秘訣,天國で永遠に生きる秘訣を正確に敎えているのである.聖書の中には 「聖靈に生まれ變われ」という句節があるが,これは神樣となって再び生まれてこそ救いを得ることが出來るということなのである.

言い煥えれば,この話は,再び神樣の心を抱けば聖靈に生まれ變わることが出來るという言葉であり,ここで聖靈に生まれ變わった者は助け主の聖靈が共にする者であると解釋出來る.助け主である聖靈が共にする者は神樣の心を抱いた者であり,神樣の心を抱いた者は神樣になった者であり,神樣になった者は,まさに苦しみと辛さを知らない幸せの中で永遠に暮す者である.

聖靈に生まれ變わってこそ救いを得るという話の意味は,自分自身を常に捨てて神樣の中で行なえば救いを得る事が出來るということである.自分が無くなる爲には,神樣の心を抱いて神樣の中で行なう者として 「自分を常に捨てる」 事である.その時, 彼はまさに聖靈に生まれ變わった者なのである.

神樣を思慕する

ことは自分を無くすことになる私を無くす秘訣は神樣の心を抱くことであり,また,「誰をも自分の身のように思う」ことである.誰をも自分の身のように思えば 「私という主體意識」 が無くなるので,まさに 「罪」 が無くなるのである.

誰をも自分の身のように思う心を自然に抱くようになるのは,私というものが無くなったからであるが,このように 「私」 を無くす秘訣は秒秒に神樣を思いの中に浮かばせ眺めることであり,また,高度に神樣を思慕することである.私が皆さんに傳えるこの話はいつも嬉しくて樂しい生活をする秘訣であり,また,死のうとしても死ねない秘訣の話であり,神樣に甦る秘訣の話であり,また,聖靈に生まれ變わる秘訣であり,復活する秘訣の話なのである.

だから,私の話どおり, 皆さんが實踐さえすれば皆さんは神樣になるのである. 神樣になればすべてが終わるのです.皆さんが昔の癖をそのまま持って生活すれば,その人はまことに可哀相な人である.

故に,この眞理を知った後には世の中との緣を斷たなければならない.世の中の緣を斷つには世の中でしていた癖を完全に捨てなければならず,そうしてこそ皆さんが新しい人になって神になるのである.

「神樣がいらっしゃる所がいずこも天國」 という言葉は神樣自體が天國であり,神樣自體が 「生命の木の實」 になるという意味である.

「生命の木の實」 というのは,魔鬼に勝つ心であり,死に勝つ心であり,死に勝つ者は 「お勝ちになった神樣」 以外には居られない.

神樣の話がいつも耳に聞こえてこそ神樣を思慕する

こと死に勝つ者が助け主の聖靈であり,助け主の聖靈が 「生命の木の實」 であり,「生命の木の實」 が,卽ち天國であり,天國が卽ち信仰である.信仰自體が復活であり,復活自體が,卽ち信仰である.私が異色的な言葉を語るようであるが,これはとても聖書的であり, 佛典的な話である.私は神樣の話の錄音テ-プをいつも聞いて步き回った.

神樣の話がいつも耳に聞こえてこそ魔鬼が隙きをねらわないから,車に乘る時などや仕事をする時も,道を步く時も,何をしても常に神樣の話を聞いたのである.だから,いつも神樣を思慕する心,神樣を秒秒に思い浮べ眺める心が途切れなかったから,私は勝利者になることが出來た.皆さんもそのようにしなければならない.錄音テ-プを聽けば, 神樣を考えるようになるので,神樣を思慕するようになるのである.私が錄音テ-プを聞きながら完全に委ねて完全に從順する生活をしたから,勝利者になることが出來た.

それをおろそかにする人は結局には落後してしまう.汚染されて恩惠を受ける生活が出來ず結局は勝利者になることが出來ない.神樣の尊嚴性を感じていつも祈ってこそ, 神樣の尊嚴性,神樣の恩惠に對する大切さを强く感じ, そうなればそうなるほど恩惠が强く連結する.神樣の尊嚴性を知らずに神樣の恩惠に對する大切さが分からない者には恩惠が連結しない.

入門したばかりの新しい家族に露が降りるのが見え,私の周りにある後光が見え,生水が口の中から川のように流れる體驗をするのはどうしてだか皆さんは知っていますか.舊家族達は私と每日禮拜をするから,心が鈍くなってその日がその日のように心に變化もなくて恩惠の體驗もないのに比べて,新しい家族達は心の姿勢が神樣に對する大切さを自覺して眞心をこめて禮拜をするからである.

このように心の姿勢が重要である.神樣を思い浮かばせ眺める時, 震える心,畏れる心,感謝する心を持つ時に恩惠に繫がるのは,神樣が我われをご覽になる時,我われが一番美しい心を持った時に恩惠は與えられる.その心の姿勢を亂して禮拜する時, ひざまずくこともなくどっかと廣がり座っている人は恩惠を受けることが出來ない.

事情上, ひざまずくことが出來なければ, 心だけでも敬虔な心,畏れの心で禮拜しなければならないのに,心が解け盡して,神樣がご覽になる時,「卑しい奴」とお考えになれば恩惠を受けることは難しくなる. いつも下腹に力を入れて,口を重くして,私が步いて來た道,私が恩惠を受けた秘訣を心に銘じて聞かなければならない. 祈る時, 私はいつも下腹に力を入れながら祈った.

道を步く時も,座って誰彼と話す時も, 下腹に力を入れて祈った.祈る時は目をつぶることなく,いつも目を開けたまま神樣の顔を思い浮かばせて目に刻み眺めながら祈った.私は, 自分が眞理の道を步もうとしたので,このような道,あのような道を探して丹田呼吸法が良いことを氣づくようになった.

下腹に力を入れて祈れば頭の天邊から神樣の恩惠が連結するから,雜念が入る時は下腹に力を入れて呼吸を止めて神樣を高度に慕いながら祈るようになる.そうすると詰まったものがポンと破れながら生水が腹の中と全身に流れたのである.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

心の爭いに勝ち續ける勝利者にならなければならない

私の分身が甘露になって降りるから, その甘露が人間の毛孔に入り人間はすべて神になるのです. 私が驛谷の勝利祭壇に立てば驛谷の祭壇にだけ甘露が降りるのではないのです.現在, 全國の祭壇, 日本, 英國, 米國の祭壇がある所には全て私の分身が共にするからそこにも甘露が降りるのです.

祭壇がある所では何處でも甘露が降りているのです

人の中に流れている血の年は六千歲です. 魔鬼の靈が六千歲も年を取っているという意味です. 六千歲になっている魔鬼が, 人びとを巧妙に技術的に困惑させ續けた果てに人びとを死に至らしめるのです.事實, 世の中に魔鬼より頭がいい者はいないのです. その魔鬼の知能をしのぐ存在が救い主です.

救い主が魔鬼を殺すことが出來るのは, 魔鬼の知能をしのぐ高い段階に昇っているからであり, そうでなければ魔鬼を殺す事が出來ないのです. 全宇宙を治める魔鬼の大將を殺して無くしたので勝利者になったのであり, 魔鬼の大將が座っていた權座に今は私の本體が座っているのです.

私は台風も韓國に上陸させないようにし, 共産主義もなくし, その上, 每年降る梅雨も防ぎ, 每年豊年にさせ, また, 北朝鮮と韓國の間に戰爭が起こらないようにしたのです. そのように風雲造化を初め, 事物を自由自在にするのは私が能力を持っているからであり, 能力を持っていなかったなら絶對に出來ない事です. 私がそのような能力を持っていなかったら僞救い主です.

もし, 私が僞救い主なら甘露を降ろす事が出來ないのです. 甘露が降りるということは眞の救い主である事を證明する事だけではなく, 全知全能者のあかしなのです. 全知全能者でなければ露は降りないのです. 甘露は勝利者の分身です. 勝利者の靈の分身です.

私の分身が甘露になって降りるから, その甘露が人間の毛孔に入り人間はすべて神になるのです. 私が驛谷の勝利祭壇に立てば驛谷の祭壇にだけ甘露が降りるのではないのです.現在, 全國の祭壇, 日本, 英國, 米國の祭壇がある所には全て私の分身が共にするからそこにも甘露が降りるのです.

この道(どう)は神の心で步む道です

この道は心で步む道であるといいました. 心が神の立場で動いてこそ, それが卽ち神に向かって道を步んでいることであり, 魔鬼の立場, 卽ち, 私という意識の立場で考える事は全て魔鬼の心です.

だから, 私という者が笑えばそれは魔鬼の笑いです.本當に道の修鍊を行なう人はその心の位置が神にあるのか, 魔鬼にあるのかという事を分別出來てこそ道の修鍊を始める事になるのです.

その境地を發見出來ない人は道の修鍊の始まりにも入っていないことです. だから, 私がこの世の中には宗敎がなかったというのです.宗敎というのは卽ち神の中に宗敎があり, 永遠の命の中に宗敎があることであり, 死の中には宗敎がないのです.「私という意識」 が考える宗敎は宗敎ではないのです.また, 「私という意識」 が考える學問も學問ではないのです.

神の立場で知って考えるのが宗敎であり, 死ぬ業, 人が死ぬ宗敎團體は宗敎ではないのです. 死ぬのは確かに魔鬼の業です. 魔鬼は死の神なので, 死の神によって死ぬことは眞理の宗敎團體にはなれず, 神の永遠の命, 永生の團體になる事が出來ないのです.だから, 死ぬのは宗敎とは言えず, 死なずに永遠に生きる業が宗敎の業なのです. 宗敎なら罪が何であるか知るべきであり, 又, 義が何であるかを知るべきです.

義が何であり, 罪が何かであるかを知ってこそそれが宗敎です. 佛敎のお坊さん達が木魚を叩く事も, 自分自身が道の修鍊をして, 佛樣におじぎをするのも自分自身がおじぎをすることなのです. 自分自身がすることを知って行なうのは, まさに魔鬼の仕業です.

自分自身が魔鬼だから, 自分自身がさせるとおり行なうのではなく, いつも神樣が私という魔鬼を引っぱって通いながら神樣が主宰をなさってこそ, それが道の修鍊をして磨く事になるのです. これを知っている人がいないのです. だから牧師やお坊さん達が道の境地に至ることが出來ないのです. 道の境地に至っていない事は眞の宗敎とは言えないのです ‘私という主體意識'が 「善惡を知る木の實」 であるという事實を皆さんに救い主が宣布しているのです. 

木のように心が動かない狀態でも成し遂げられた段階ではない

この世でただ一人, 私が ‘私という主體意識'をなくしてしまう方法を皆さんに敎えているのです. その方法は「反對生活」 をする事です. 反對生活というのは 「私」 という者が仕事を嫌えば仕事を熱心にし, 「私」 という者が誰かを憎めば, その憎らしい人を心から好きになり, 眞心から愛するように心を變えて反對生活を續けて行なえば, その憎らしい感情が無くなるのです.

これが, 正しく第1次段階の道の境地に到達した人が感ずる心の變化です. 卽ち, 人間の心が消えるのです. それが道の修鍊をする人の基本姿勢です. そうなれば, 大變な仕事をしても大變に感じる事がなく, いくら苦しくても, 苦しく感じる事もなく, ひざまづいて座っても膝が痛むことさえ感じないのです. 何らの感じが來ないのです. まったく木のようになってしまうのです. 

そのようになったとしてもそれが成し遂げられたのではない. まったく木のようになった事で成し遂げられたと思えばそれは錯覺です.  それは變化の手始め, 卽ち, 魔鬼の牢屋に閉じこめられていた神樣の靈が, 魔鬼を殺してしまって, 靈的な墓から解放されて出て, 私という主體意識の席に座れば聖靈に生まれ變わった事になり, 復活したことになるのです.

神樣の心を抱いてこそ神樣になることであり, 神樣の中で行なってこそ神樣になるから, 卽ち, 聖靈になってこそ始めて救いを得る事になるのです. 「生命の木の實」 を食べてこそ救いを得るという話も正しく, 信仰によって救いを得るという話も正しいが, ここでいう信仰とは痛い狀況ても痛い事を感じず, 大變な事でも大變と感じない事, 卽ち, 心が動かない事なのです.

良いことを見ても好きにはなれず, 惡いことを見ても惡く感じないのです. 他人がどのような仕業をしても關心がなくなるのです. そのため 「お節介をする淫亂罪」 を犯すことがなかったのです. 兄弟が何かをすることに干涉するようになれば, それがお節介をする淫亂罪にあたるのです. そして, 人間の習性として過去をしきりに思う癖があるのに, 私は過去を思い出すことも出來ない境地に至ったのです. 

それが, 3ケ月で出來上がりました. その位, 私は執着力が强いうえ, 一度しようと思えば, 夜も寢ずにやりこなしてしまう性格の持ち主だから, 過去を思い出そうとしても思い出すことが出來ない境地に3ケ月で仕上がったのです. それで, 私がその時, 成し遂げられたと思ったが, そうではなかったのです. 矢張り, まだまだ仕上がりには遠かったし, また, 次の始まりに過ぎなかったという事を悟るようになりました.

その次には, 神樣が 「家族を考える事が關心の淫亂罪だ」 と話されるので, 理解出來ない事だったが, 神樣のおっしゃる事なので從順しました. そして, 少し經った頃, 私は家族を思いたくても思い出す事が出來ない境地に至ったのです.

誰をも私の身のように, 誰をも私の神樣のように

その次, 私は怒りたくても怒りが出ない境地に至りました. 自尊心が出ると, 自尊心の淫亂罪にかかるのです. 私は自尊心の淫亂罪にも勝ったが, その方法は, 自分の目に見える人達全てを自分の上司や神樣として考えたのです.

幼い子供だけでなく, 誰でも神樣であると思うようになると, まさしく自尊心の魔鬼が死んでしまったことです.理由もなく私をいじめたりしても何らの考えも出ない時, 勝利者になった事なのです. その時がまさしく 「自分に勝った」 ことになるのです. これが道の修鍊を磨く事なのです. 自分に勝ち續けて, 結局, 私は勝利者になってしまったのです.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

素砂の四方30里の地は宮殿が建てられる地です

三神がまさに三位一體の神樣ですね.三位一體の神が人の體をまとって老姑山と蘇萊山の間の密室で鍊鍛を受けて出て來てこそ本物ですね.卽ち,老姑山と蘇萊山の間の密室で鍊鍛を受けて出てこそ本物で,ここで鍊鍛を受けずに出る人は全て僞者達ですね.格菴遺錄の塞41章に「 人生秋收 糟米端風驅飛 糟飄風之人」と書かかれている.

永遠に生きる人びとだけが住む宮殿なので,腐らないダイヤモンドで宮殿を建てる.

實際は,500年前に南師古先生が豫言した格菴遺錄という豫言書に,この素砂の地に宮殿が立つと記錄されている.ところが,その宮殿には罪のない入だけが入ることが出來るが,罪ある人は入ることが出來ないと書かれている.ところで,どうしてここにダイヤモンドで宮殿を建てるのか.ダイヤモンドが高いからダイヤモンドで建てるのか.そうではないのです.

ダイヤモンドという物質はさびもつかず,腐ることもない物質です.だから,ダイヤモンドで建てるのです.永遠に生きる人びとだけが住む宮殿なので,100年經って崩れる宮殿なら永遠に生きる人達は住むことが出來ないでしょう.事實,この地球上にはダイヤモンドで家を建てている國はどこにもないのです.ダイヤモンドがたくさん出るアフリカでも,ダイヤモンドで家を建てる所はないのです.

しかし,韓國の富川素砂の地にダイヤモンドで四方三十里に家を建てると預言されている.その宮殿には罪のない人だけが入り,罪ある人は入る事が出來ないと記されている.だから皆さんが罪さえ犯さなければ,間違い無く永遠に生きる天國,エデンの園の宮殿に入るようになっているでしょう.皆は必ず入るだろうか,偶然に入るだろうか.

必ず入るという確信がありますか?確信がある音聲ではないが...間違いないでしょう.皆さんが確信を持てば間違いなく成就します.今, ここに立っている私がその宮殿の主人公です.今後,建てられる宮殿ではあるが,ダイヤモンドで建てるその宮殿の主人とは卽ち,救い主です.救い主がいる所が天國であって救い主がいない所は天國ではない.だから,六千年間の人類が待ちわびていたその天國がこの素砂に建てられるのです.

罪がない人だけ入る宮殿に勝利祭壇の人達の大部分が入ることが出來る

そこで,全世界の萬民がその宮殿に入ろうと押しかけて來るでしょう.しかし,殆どの人がその資格者から落ちて入ることが出來ないのです.どうして? 罪があるから.罪人は入ることが出來ないのです.罪がない人だけ入るが,勝利祭壇に通う人達の大部分が入ることが出來るのが何故かと言えば,皆さんはその天國,エデンの園にきっと入る爲に年中行事の時に私が赦免狀を下すでしょう.

その赦免狀はやたらに下るすことではないのです.その赦免狀を下るせば塵ほどの罪も無むなるのです.罪がなくなるから義人になるのです.義人になったということは神樣になったということです.だから,私は神樣を作るために來たので,まず,我われの勝利祭壇の家族達を神に作るのです.

疑う人は出來ないのです.それが本當に成就されるだろうかと半信半疑する人.私のような罪人が神樣になることなど出來るだろうかと半信半疑の人を除いて全てが神樣になるのです.皆さん,希望を持って下さい.皆さん希望を待ちなさい.永遠に永生するということが信じられる時は,皆さんが永生する姿に自分が變化した時です.

人というのは全て魔鬼のしもべなので,そのように永生の確信を持つことが出來ないのです.私がどうして勝利者になったか分かりますか?私は間違いなく永生するという100%の確信を持ちながら生活した爲に勝利者になったのです.卽ち,永生の確信がなかったら救い主になることは出來ず,勝利者になることも出來ないのです.

永生の確信だけあれば間違いなく神樣になるのです.

皆さん,この道は心で步む道だと言ったでしょう? だから,心で成し遂げられるので,私は永生の確信を持って永生の道を步んだので,とうとう終着驛である永生の高地を占べあのです.だから,勝利者になって私の體から露が出るのです.永生體でなければ,露は出ないのです.だから,永生體の救い主が勝利祭壇の義人達を育ででいるのです.永生體を育ででいるのです.

この祭壇に出ている方達が,まさに永生を得るようになっている.神樣のみむねが成就される場所を500年前に預言した格菴遺錄の甲乙論に書かれている.私が六十一歲の時にこの建物を建てて,この建物の上に虹が立つということも甲乙論に書かれている.

1991年, 六十一歲の時にこの建物の落成式を行なったのです.この年, 祭壇の上に虹が立った日は,コルバチョフが釋放された意味ある日で,私が共産主義を無くしたという確な證據になるでしょう そして,皆さん,三位一體の神樣が私の身體をまとってこの世の中に來られたと言ったでしょう.間違いなく三位一體の神樣でしょう.とこで,格菴遺錄に老姑山と蘇萊山の間で三神がはたらくと記されている.

三神がまさに三位一體の神樣ですね.三位一體の神が人の體をまとって老姑山と蘇萊山の間の密室で鍊鍛を受けて出て來てこそ本物ですね.卽ち,老姑山と蘇萊山の間の密室で鍊鍛を受けて出てこそ本物で,ここで鍊鍛を受けずに出る人は全て僞者達ですね.格菴遺錄の塞41章に「 人生秋收 糟米端風驅飛 糟飄風之人」と書かかれている.

「 糟米端風驅飛 糟飄風之人 弓乙十勝 」ということでしょう.十勝というのは十が神樣を意味するといったでしょう.だから,弓乙十勝というのは正道令, 神樣がお勝ちになった勝利者だという意味です.糟米端風驅飛は糟の字から米扁の米を風に吹き飛ばすという意味です.米扁の米を風に吹き飛ばせば殘りは何の字ですか.殘りは曹の字になる.だから,曺氏がまさに正道令, 神樣, 勝利者ということです.

だから,利見機打破滅魔という言葉があるが,これは眺める瞬間,魔鬼を撲滅掃蕩するということです.私が眺める瞬間,魔鬼,すべて死ぬのです.「 人生秋收 糟米端風驅飛 糟飄風之人 弓乙十勝 」という言葉は人生を秋收しに來る人がいるということで,人を全て秋收しに來るでしょう.

秋收して,「しいな」,卽ち,皮だけの を飛ばして火に燒いてしまい,實は集めて倉庫に置くという仕事をするのが人生を秋收する人ですね.だから,人の中に精穀があって人の中に「しいな」がある.「しいな」はこの祭壇に出ながら,やがて出ないようになる.「しいな」は風に飛ばされて行くようになっている.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

救援の資格は救い主になることです

「誰をも自分の身のように思え」 という言葉は何かと言えばお前と私の區別がないということで誰も自分と同じだということです. だから,誰も自分と同じなので全人類が二つではなく一つになるのです. これは全人類に平和を與えることです.
救い主の中に私がいて私の中に救い主がおいでになるという心構え
23年間のみ業が流れて今は神樣のみ旨が成し遂げられる時になったのです. だから, 皆さんに救い主になる方法を敎えます.
皆さん, これは宇宙で初めて出た哲學であり, また, 最後になる完成の學問です.
これはどんなに多くの人でも神樣に作る事の出來る學問です.
卽ち, 神樣になる哲學, 救い主になる哲學を皆さんに敎えているのです.
救い主になる方法はとても簡單な方法であり, これは天機に屬する言葉です. 人類歷史6000年以來, これをこのように論じた人がなかった哲學です.
この哲學は天國の知惠であり, 學問です. 神樣に委ねてこそ神樣になるが, 神樣に委ねる哲學が何であるかを知ればとても簡單なことです.
卽ち, 神樣の中に私がいて私の中に救い主がおいでになれば, 神樣と私が一つになるのです.
一つ(ハナ)樣(ニム)の字を付ければ何になりますか. 神樣(ハナニム)になるのです.
このように救い主の中に皆さんがいて皆さんの中に救い主がおいでになってこそ, 救い主と皆さんが一つになり, その時, 皆さんが救い主になりながら天國に入ることが出來るのです.
救い主は完成者です.
完成者になる方法は, 私が救い主になる完成者の中に入れば完成者になるようになり, また, 私の中に完成者がおいでになれば私が完成者になるのです.
完全に神樣に委ねること
これは, 私が初めに驛谷に出て話した 「誰をも自分の身のように思え」 という神樣の律法の話なのです.
一つになれば終りであり, 全人類が一つになればさらにする事はないのです.
だから, 皆さんがこの學問を知れば神樣にならないということは無く救い主にならないということがあり得ないのです.
私が救い主の內にいて救い主が私の內においでになれば一つになるでしょう.
だから, 救い主になる方法は, 救い主とは勝利者を經て更に進んだことを經て完成者になった後, 神樣になり, その次に救い主になるのです.
それ故に, 今日, 私が密室に入ってどうすれば神樣の恩惠を受けて神樣のみ旨を成し遂げるだろうかといつも工夫しながら, 密室で硏究を繰り返した果てに神樣に完全に委ねなければならないということを發見したのです.
更に, 完全に委ねたと思っても委ねなかったことがあったので, 完全に委ねたことになる爲には私が神樣の中にいて私の中に神樣がおいでになるべきで, そうなれば皆さんはすべて救い主にならないことはないのです.
だから, 救い主になろうとして神樣の中に入る爲には罪を犯してはいけないのです. 罪を犯さず奇麗な心靈に成ってこそ神樣の中に住むことが出來るのです.
神樣が私の中に入られる爲には奇麗でなければならないので, 私に缺點がなく奇麗な心靈になってこそ, 神樣が私の中においでになるのです.
私は密室の中でこのように鬪爭して成功した人です.
魔鬼は 「私という意識」 であるので 「私という意識」 を除去する方法は, 神樣が私の中にいらっしゃることであり, 私が神樣の中にいることが魔鬼である「私という意識」を消滅させることです.
だから, 皆さんに救い主になる方法すべてを敎えたから,皆さんすべてが救い主にならなければならないのです.でも救い主にならない人がいれば, その人は呪われた人です.
呪われた人は地獄行きですか, 天國行きですか? 地獄に行くのです.

救い主を高度に思慕すること
いつも神樣の中に生きる爲には神樣を高度に思慕しなければならないのです. だから, 皆さんが救い主の內にいる爲には救い主を高度に思慕しなければならないのです. そうなると救い主が皆さんの中においでになるのです.
救い主と皆さんが一つになるので, 皆さんは救い主として完成されるのです. 救い主, 完成者になるから全知全能者になるのです. だから, 高度に思慕して自分のすべてを神樣に委ねなければならないです.
私が持っているものも神樣のものを保管していると考えなければならないのです.
自分のすべての物は救い主の物だと考えること
神樣が保管しなさいとおっしゃって私が預かり持っていることであり, 自分のものであるから持っているのではないのです. このように普通の人と考え方が違うのです.
皆さんが一円を持っていても神樣のものを私が保管していることになるのです. だから, 神樣のみ旨によって使えば罪にならないが, 自分の心どおり使えばそれが罪になるのです.
けれどもキリスト敎ではこれが罪になることを知らないです.
自分の心どおり使えば罪になることを知らないです.
だから, 聖書に 「主よ,主よという者が, みな天國にはいるのではなく, ただ, 天にいますわが神樣のみ旨を行う者だけが, 入るのである」 という話があるのです. このように皆さんがチュニムのみ旨どおり行なおうと心を碎いて努めれば自然にチュニムの中に住むようになっているのです.
すべての人を自分と同一に思って全人類に平和を與えること
靈母樣の時は從順してこそ救われると話され, その次, 私が出て誰をも自分の身のように思ってこそ救われると話しました.
「誰をも自分の身のように思え」 という言葉は何かと言えばお前と私の區別がないということで誰も自分と同じだということです. だから,誰も自分と同じなので全人類が二つではなく一つになるのです. これは全人類に平和を與えることです.
眞の平和は全人類が一つになってこそ成し遂げられることであり, 一つにならなければ眞の平和は成し遂げられないのです.
イスラエルとパレスチナが戰爭を續けながら休戰し, また, 平和會談をしている間に戰爭をするでしょう.
そのようになったのはイスラエルとパレスチナが一つにならなかったから, 平和にならないのです.
だから, イスラエルとパレスチナが平和の國になる爲には一つにならなければならないのです.
イスラエル人がパレスチナ人を自分の身のように思ってパレスチナ人がイスラエル人を自分の身のように思えば戰爭しますか?
戰爭することが出來ないですね.
だから, 皆さんがこの話を聞いて救い主を高度に思慕すれば, 救い主の內で生きるようになり, 救い主が皆さんの內で生きるようになるのです.
そうなれば救い主が私であり, 私が救い主になるのです.
救い主が23年間一人で救い主の役割をしたが, 今後, 全人類は一つになるだけではなくて救い主がたくさん出るでしょう.
皆さんが救い主を高度に思慕して救い主の內で生き, 救い主が皆さんの內で生きるなら救い主と皆さんが一つになるのです.
救い主と皆さんが一つになれば皆さんが救い主になるのです.
だから, 皆さんが完成の救い主になれば, 救い主と同じになるのです.
救い主が一人しかいないから, 魔鬼が救い主だけ無くせば終りだと思って救い主を獄中に入れたが, 救い主が多ければ獄中に入れ續けても救い主が續けて出るからその時は魔鬼が手足をすべて投げ出しますね.