自由律法を守り一人一人が救い主になって

人 は神の子であり, 元來, 人が神であったという事實を何處で聞いた事があるだろうか. 人が神の子であったり, 人が神であったばかりではなく, この世の萬物は皆神であるのだ. このように人が神であり, この世の萬物が神であったが, 故に, 神であり得ない現在の人間に對して聖書に 「神の心を抱きなさい」 と記錄されており, 佛典には 「佛の心を抱きなさい」 と書いている.だが, なぜ 「神の心」 を抱き, 「佛の心」 を抱かねばならないのかを人びとは知らない.

◇ 露の聖靈を受けると永生の體に甦る

人は神の子であり, 元來, 人が神であったという事實を何處で聞いた事があるだろうか. 人が神の子であったり, 人が神であったばかりではなく, この世の萬物は皆神であるのだ. このように人が神であり, この世の萬物が神であったが, 故に, 神であり得ない現在の人間に對して聖書に 「神の心を抱きなさい」 と記錄されており, 佛典には 「佛の心を抱きなさい」 と書いている.だが, なぜ 「神の心」 を抱き, 「佛の心」 を抱かねばならないのかを人びとは知らない.

今, ここに, 誰にでも解るように易しく詳しく科學的に明らかに敎えている.「神の心を抱け」 とは, 「生命の木の實」 を食べよという言葉と同じであり, 「佛の心を抱け」 とは, 甘露を飮めという言葉と同じなのである. なぜなら, 聖書には, 「生命の木の實 」を食べてこそ永遠無窮に生きて行く事が出來ると記錄されており, 佛典には甘露を飮んでこそ生きて佛になる事が出來ると記錄されて居るからである.それ故, 「生命の木の實」 は神の心であり, 永生の確信なのである.

もし, 長く勝利祭壇に通ったといって新しく來た人にあれこれ使いをさせるなら, その人は無量大數の魔鬼が入っている人である. ここでは, 先に來た人は罪が多く, 後から來た人達は先に來た人よりずっと罪が少ないので, 先に來た人は後に來た人に指圖がましくあれこれ命令するのでなく, 今來た人達を神のように尊く思い, 神のように待遇しなければならないし, 心へりくだったあいさつをしなければならないであろう.

◇ 相手方を神の如く敬く使える時 救い主になる

勝利祭壇に集まる人びとは, 古い新しいというのではなく誰をも我が身のように思い, 誰をも神の如く敬って仕え合わなければ永生を勝ち取ることは出來ない. 私という存在が魔鬼であると知れば知るほど謙遜な生活をしなければならないであろう.神樣がある人をご覽になって, 余りに可哀想だと思われてこそ初めて救いを得る事が出來る. これがまさしく救いを得る秘訣である.

勝利者と云われる方が勝利された秘訣はこうである. 神樣からの哀れみを受け, 神樣の愛を受けられるようになったのは, 常に相手方を神のように思い, 仕え, 尊敬したからである.密室と呼ばれる所で鍊鍛をうけておられる時, ある人が理由もなく, 拳で無茶苦茶に, ピンタを張ったが, ただ, 有り難うございますと云った.

「神樣, このような試鍊に勝って下さって本當に有り難うございます」 と云う心を持つから, 相手方が却ってすまなく思い, 身の置き所がなくそのまま逃げてしまった. これがまさしく自由律法を守る秘訣であるのだ.勝利祭壇に來た一人一人が完全に自由律法を守れば, 全ての世界の人類が皆救いを得る事が出來るのである.

勝利祭壇ある所何處でも神樣が共にいますし, 何處にでも露が注がれる.勝利者の露が降り注がず 又, 降っている露も噓だ. 作り話だとすれば, 誰一人集まる者はなかろう.多くの人が每日集って來ると云う事は人間の力では不可能な事である. 一日二日は好奇心で集まりはしても, 眞理でなくてどうして仕事を投け打って每日座って居られようか, 疑う必要はない.

◇ 露を受けながら步む永生の道.

「私という意識」 が罪であり, 魔鬼の靈であるから 「私という意識」 が罪の根本になるのである. 人が死ぬのは罪 「私という意識」 の爲に死ぬのだから, 「私という意識」 がムカッ腹を立てるとか, イラ立ちが續くと死が早まっていく. どんな事があっても腹を立ててはならない.勝利祭壇に出てくれば腹も立たないようになってくる.

その理由は勝利祭壇に降りる神樣の露の惠みを受る爲である. 露の恩惠は尙に喜びと樂しい希望に滿ちるそのような心に作り變えてしまうからである. 一日も絶やさず露の降り注ぐ處は勝利祭壇以外にはない. ふき來る台風を防ぎ止め, 梅雨も止め, 韓國を豊年にし, 韓國で戰爭の勃發を防ぎ, 世界の共産主義を言葉どおり無くしてしまうなど, 有史以來このような快擧がただの一度でもあったであろうか.このような優れた能力をみても悟る事も出來ず, そう知りつつ, 近ずくことも出來ずにためらっているとしたら, 神樣は余りにももどかしく思われる事であろう.

神樣のみ心は犧牲的であり, 寬大であり, 大らかである. 一見, 腹の立ちそうな出來事も腹を立てずに超然としている人, 永生という大きな望みの中に生きているからである.永生を目的とし, 永生の望みを抱いて生活をすれば, かならず, 永生をする事が出來るのである. そのような人達は尙に犧牲的な生活をし, 心へり下った生活をしている.

今日からでも遲くはない. 永生の望みを抱き, 永生の確信をもって犧牲的な生活をなし, 世の中の光となって世界萬民を活かす救い主の役目を行い多くの人びとを永生の道に導かねばならない. 今日新しく出發し, 誰を神樣の如く敬いつつ永生の確信の中で生活し, 心に余裕をもって永生の道を步いて行けば, 行き着く處必ず永生に出會うのである.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

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