常に神樣に傾けて犧牲的な心で動く時, 神樣は恩惠を注いで下さる

いつも神樣の心,卽ち, 犧牲的な心,自分がこのようになろうが, あのようになろうが,自分が救いを得られるか,地獄に落ちるのかを考えず, 「神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい」 「この者を供え物にするからこの供え物を使って神樣のみ旨を成し遂げて下さい」 という心が信仰人の心と生活である.これが,天國に入ることが出來る資格者の心なのである.

◇ 密室で私の生活を證として話したことがある.

私は祈る時に 「私が勝利者になるように」 と祈ったことが一度もない.「私を地獄に投げてもよく,ゴミ箱に捨てても良いから,神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい.」 「あなたのみ旨を成し遂げる爲には,この私が犧牲の供え物になります」 「犧牲の供え物になる爲に足りないものがないようにして下さい.」 と一貫して祈った.

「神樣に私の全てを,生命と體と心を委ねるように」 「委ねることも私が委ねるのではなく, 神樣が委ねさせて下さい.」 と祈った.皆さんもこの話を聞いたことを思い出されるでしょう? ところが,その話を聞いた時は魔鬼が聞いたので重要に考えなかった.私が皆さんに再び言う意味は,今からは魔鬼の人が行なうことを中止して,神樣の人が祭壇に出て,神樣の人が仕事をして傳道もしなければならないからである.

「天に屬している人」 が傳道してこそその實が確かに結ばれることであり,「天に屬している人」 が傳道しなければ傳道も出來ない.魔鬼は實を結ぶことが出來ない.魔鬼は實を結ぶことが出來ないので,傳道する時, ‘私という我相が傳道せず神樣が傳道なさって下さいというように.「神樣がこの方を傳道なさって下さい」 といつも祈りながら傳道しなければならない.

◇ 神樣の心は犧牲的な心である

傳道が出來た時は 「傳道したのは私ではなく,神樣がなさったのでしょう」 「神樣が傳道なさり,率いて下さったことであり,私が行なったことではないのです」 という心情で傳道してこそ,その人の靈がだんだん育つのである.“私”が每日行なってみても靈は絶對に育たない.

卽ち, 皆さんが「天に屬している人」の立場に立って心を主管して生活して,禮拜する時にも,「天に屬している人」 が禮拜をしてこそ,恩惠を受けることであり,「魔鬼に屬している心」 で每日熱心に禮拜しても,絶對恩惠が行かない.ところが,「天に屬している人」は「天に屬している心」 を持っていることで,「天に屬している心」 というのは犧牲的な神樣の心である.

犧牲的な心が神樣の心であり,利己的な心は魔鬼の心である.だから,皆さんは神樣の心,卽ち 犧牲的な心を持って生活しなければならない.自分が救いを受けられるか,受けられないか,自分が天國に行けるか,行けないか,關係なく,“この者を犧牲の供え物にして神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい.” という祈りを以って一貫してこそ,これが,本物の「天に屬している人」 の祈りである.

犧牲的な心だけが救いを得ることが出來るのであり, 「私という主體意識」 をいつも持ち,利己的な考えを持って「私」 が天國に行こうという目的を持って信仰生活をすれば, その人は決して天國の門を越えて行くことが出來ない.

◇「神樣のみ旨を成し遂げて下さい」 と祈り續けてこそ

いつも神樣の心,卽ち, 犧牲的な心,自分がこのようになろうが, あのようになろうが,自分が救いを得られるか,地獄に落ちるのかを考えず, 「神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい」 「この者を供え物にするからこの供え物を使って神樣のみ旨を成し遂げて下さい」 という心が信仰人の心と生活である.これが,天國に入ることが出來る資格者の心なのである.

「神樣の爲に生き,神樣の爲に動かし,私が語ることごとを神樣に榮光を歸する言葉として考えて下さい」 という祈りを續けなければならない.いつも 「私という主體意識」 が誇らかに存在し,自分の優れていることを現す爲に話す人は魔鬼の靈が動いているから,神樣は絶對に喜ばれない.「祭壇に行きましょう」 と云ったとして神樣が喜ばれるのではない.

神樣は忠心なる 「犧牲的な心」 を喜ばれるのである.「私が動く一擧手一投足を神樣が率いられて,神樣が主宰され,神樣がご覽になり,正しい心靈に作って動かして下さい.」 と祈ったら神樣は喜ばれる.この道を行く人たちは犧牲的な心が下敷きになってこそ,この道を行くことが出來るのであり,利己的な心で祭壇に出る人はこの道を行くことは出來ないのである.

人に見える所には顔を出し, 自分が認められる事を目的として祭壇に通う人は決してその靈が育つことはない.だから, 神樣はいつも隱密に恩惠を下さり, 隱密に神樣の生命の眞液を注いで下さる.だから, 人の前では少しも眞の信仰者に見えずとも, 心だけは常に神樣に傾けて犧牲的な心で動く時,神樣は恩惠を注いで下さる.

◇ 神樣の心と一致させるように自分の心をチエックすること

皆さんが香臭をかぐとか,生水が連結される時にその生水を續けて連結される爲には,自分の心に神樣の心の狀態を維持させてこそ,その恩惠が續けて連結することである.だから,いつも神樣の爲にだけ生きなければならない.だから,自分の持っているお金も,自分のものではないから勝手に使うことは出來ないのである.

それを自分のものだと考えて勝手に使う者は決して天の人になることが出來ない.神樣に榮光を歸する爲にはそれに合う信仰的な姿勢がなければならない.それでこそ恩惠が絶えず連結するのである.隱密にみ業をなさる神樣は魔鬼が分からないように魔鬼の目を避けて恩惠を與えられるから,恩惠を受けても恩惠を受けた樣子をしてはならない.

いつも魔鬼を騙しながら神樣が恩惠を與えられるから,神樣が恩惠を隱そうとされるから,恩惠を受けた人が受けた恩惠を隱すのは當り前である.恩惠を少し體驗したとして,口を開いて隣に誇れば,二度恩惠は來ない.

◇ 神樣は隱密に恩惠を與えて下さる

神樣の心が搖り動かされてこそ恩惠が續けて連結されるのである.だから,私は神樣に體と生命と心全てを委ねたが 「委ねることも神樣が委ねて下さい,私は委ねることが出來ないのです.私が委ねようといくら努めても出來ないのです」 と神樣に切實な心で祈る時, その時に神樣が恩惠を與えられた.

だから,恩惠を受けても絶對に恩惠を受け素振りをせずにいつも恩惠を受けないような姿で生活をしなければならない.そのような態度と行動で神樣が下さるお恩惠を魔鬼が知らないように隱す生活をしてこそ,その恩惠を續けて受けることが出來る.だから, 恩惠を受ければいつも犧牲的な心がぎっしり滿ちてあるから,さらに神樣の恩惠が溢れ出るようになっている.

神樣の恩惠を受ける人は,自分を現さず,いつも自分を隱しながら,謙遜で犧牲的な生活で一貫するようになっている. 人びとの前で神樣の仕事をするのではなく,人が見ない時に神樣に忠誠をつくして,神樣に感謝する生活をする.自分を表わしたり誇ったりする人は, すでに世の中から賞を受けた人なので神樣が二度賞を與えられない.

隱密なところにいらっしゃる神樣の爲にだけ生きるそのような犧牲的な生活が皆さんにあってこそ, 恩惠の滄波の中で幸福な生を享受することができる.生活全てがまさに神樣の爲に生きている,神樣の爲にだけ犧牲になる健全な生活になってこそ,皆さんは神樣になって永生を得るのである.いつも犧牲的な心が心の基礎になって活氣に滿ち溢れて祭壇に出て禮拜をし,大聲で手を打って神樣を贊美しなければならない.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

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