私自身が覺りを得た時, 先祖の靈も共に佛と化します

宗敎の根本目的は眞理俱現であり,卽ち,苦しみの中で踏み迷う人間を救濟する事にあります.しかし, 佛敎やキリスト敎などでは,生きている現世で人間を救濟する考えをせず,誰を信じれば死んで天國に行くとか,また極樂に行くとか云いながら,宗敎の本來の目的を喪失して安逸に陷っているのです.人間は今直ちに苦しみの中から拔け出すことの出來る何かが必要です.

◇ 心がけどうりに血が變化する

宗敎の根本目的は眞理俱現であり,卽ち,苦しみの中で踏み迷う人間を救濟する事にあります.しかし, 佛敎やキリスト敎などでは,生きている現世で人間を救濟する考えをせず,誰を信じれば死んで天國に行くとか,また極樂に行くとか云いながら,宗敎の本來の目的を喪失して安逸に陷っているのです.人間は今直ちに苦しみの中から拔け出すことの出來る何かが必要です.

旣存のすべての宗敎は苦しみと惱みの中で喘いでいる人間に正しい方向提示をせず,かえって誤った價値を注入させるために現人類が危機に置かれる狀態を作るのに先き立ったのです.だから,私はこの世には學問も宗敎もなかったと云っているのです.ひたすら無馱な妄想を强要する僞宗敎の奴隷狀態の中から拔け出すことが出來なかった者が今の人類なのです.

死んだ後に天國に行くという宗敎はすべてが僞宗敎であり,そのことを敎えて善良な人びとからお金を取ることは詐欺です.この世のすべての宗敎がこのようであるから,眞の宗敎がないと云うことです.生きている現世を天國に作らねばならず,死にかけている人間を死なないようにすることが眞の宗敎でなのです.眞理は變わらないものなので,變わる全ての中には眞理は含まれていないのです.

人間が死ぬこともなく變わらない身體に變わってこそ, まことの眞理が具現されるのです.聖書は人間が永生することが出來るとはっきり論じています.人間が永生體に變わる時に眞理が具現されることで宗敎が完成されるのです.だから,人間が死んで靈魂が身體を離れ天國や地獄に行くと云う言葉は雲をつかむような臆說に過ぎないのです.

人間の身體がすなわち靈魂です.身體を離れて靈魂は存在しないのです.これを聖書的にまた科學的に私は論じています.聖書に は 「生命が靈である」 (ヨハネ1章1:4)と書かれています.また,箴言4:23には 「生命の泉は,心から流れ出る」 と云い,生命がすなわち心であると記されています.また,「血がまさに生命である」 (レビ17:11) 「生命である血のままでその肉を食べてはならない」 (創9:4)と書かれているように血がまさに生命なのです.

血が肉と體になるので,身體が死ねば生命が死ぬことです.だから,靈魂=生命=心=血=身體になります.血の作用がすなわち心と云うことは, 血液型のA型の人は性格がきちょうめんで,B型の人は社交的で,O型の人は强情で過激な性格を持っていると云われている事から見分けることが出來ます.

狐のような顔つきの人は狐のような仕業をし, いたちのような顔つきの人はいたちのような仕業をします.このように心がまえによって血が變わって顔付きも變わります.よく怒ったり心配を多くすれば顔にシキが出來,顔つきも變わります.魔鬼の心を抱けば魔鬼の顔になり,神の心を抱けば神になるのです.

◇ 死んだ人の靈魂は子孫の中にいます

身體はすなわち生命であり靈魂であるから,一人の人間が死ぬ時,その身體は死ぬが靈魂はその人の子孫の中にもあるので,その子孫の中でその人の靈魂は生きているということです.死んだ先祖たちの靈魂がまさに生きている子孫の中にいるということです.卽ち,死んだ者の來世がまさに生きている人の現世なのです.靈魂が別の處に行っているのではありません .子孫の中に死んだ者の靈魂が全て入っています.だから,子孫が立派になれば先祖も立派になるのです.

子孫がよく食べると先祖がよく食べるということになります.死んだ先祖の祭を別に行う必要がなく,子孫がよく食べればよいと言うことです.イエスが生きている人びとに “墓のような人生たちよ”と話したのは,生きている人の中に死んだ人たちの靈がうようよしているので墓だと言ったのです.“わたし”が考えていることは,實際は死んだ人たち,卽ち魔鬼の塊が考えていると言うことが出來ます.

そして,その魔鬼たちが率いたとおりに動く場合が多いのです.だから,人が罪を脫いで義人になれば死んだ先祖たちもすべて救われるのです.自分の血の中に先祖たちの靈があるので自分が神になれば先祖たちも全て神になります.佛典にもこのような句節があります.

「もともとの心を取り戾してこの自分が佛樣になれば先祖も自然にそのようになるので,生きている人も,死んだ人も全てが佛國土に入ることを…」 と.だから,自分が罪を無くし輪廻の車輪の中から拔け出したとしたら,死んだ先祖も全て佛樣になるから,これこそ最大の親孝行になります.皆さんが勝利祭壇に出て,生き彌勒佛, 正道令, 救い主である私に會うことが出來るのは皆さんが立派であるからではないのです.皆さんの身體の中の先祖がこちらへ率いて來たのです.

だから祖先代代の三代が積德を施した一家の子孫でなければ生き彌勒佛に會うことも出來ず, その名前を知り得て唱えることは出來ないと涅槃經,格菴遺錄に書かれています.釋迦三千年後に彌勒佛樣がこの世の中に現れて20年も過ぎているが,まだこの事實を知らない人が大部分であるからこの話は事實なのです.

ところが,佛敎では人が死ねば彼が作った業報によって牛になったり, 鳥になったり, ほかの獸になったりすると敎えているがこれは,誤った言葉なのです.人が死んで別の獸になることではなく,彼の靈魂が子孫の中に入ることなのです.だから子孫が先祖たちの顔付きと性格などに似ているようになっているのです.

また,先祖が犯した罪も遺傳されるのです.だから,自分が犯した罪は必ず罰を受けるようになっているし,自分が積んだ德行も必ず報償を受けるようになっています.當代に受けなければ子孫が必ず受けるのです.ところが,子孫の身體の中に先祖の靈がいるので, 子孫が苦しめられれば, 先祖も一緖に苦しめられるようになっているし,子孫が立派になって嬉しい時, 先祖の靈も一緖に喜ぶことになるのです.

◇ 人の中の惡いところを除去して天地開闢のみわざをする

“この世が大變つらい”と言い,死ねば樂ではないだろうかという心を抱いて自殺をする人がいます.しかし,死ねば終わりという考えは勘違いなのです.自分が死ぬことによって全てが終わることではないのです.死ぬことが卽ち地獄です.死んだ後の苦しみは言葉では表現しがたいほど辛いものです.自分の靈が息子の中にいるのに,その息子が自分の望む通りに動いてくれないことです.

それは言葉に言えないほど息苦しいのです.言えないほどの苦しみと惱みと心の傷の中にいるものが死んだ人の靈なのです.だから,どんなにしてでも死んではならないのです.ところで,子孫の中で誰かが解脫して永生身體に變われば死んだ先祖たちの靈がすべて生き返った事になるのです.だから,我われの先祖たちはどのようにしてでも代を繼ごうと心を碎いたことです.

自分の血が跡絶えることなく子孫代代に續いて行きその子孫が彌勒佛に會って解脫する時,自分も共に解脫しようとする念願が下敷きになっていることです.涅槃經を見れば,釋迦が入滅三千年後 (正確に三千七年) 彌勒佛が降臨されるので, 東方の朝鮮の地に羊の年に來られ,また曺氏の名前で來られると記錄されているのです.彌勒佛が來られたら,全ての衆生を解脫させ,全て佛と成させ, 地上佛國土,地上天國を建設し, その中でもはや死ぬことなく永遠に生きるようにすると言う內容が書かれている.

また,その時は全ての衆生が生老病死の輪廻から拔け出すので再び生まれることもなく,死ぬこともないと記錄されている.今,生き彌勒佛である私が死を滅ぼしています.人が死ななくなるから子孫を殘すという切實さもなくなり,子供を生む必要が無いのです.誰でも佛になれば男性と女性の區別が無くなります.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です