聖書の中に解けない謎

その時より主體靈が變貌してもともとから持っていた’私’という主體意識の位置を占めていたハナニムの靈は押し出され,死亡の靈なる惡魔が私という意識の位置に座りこみ,惡魔が操る通りに動きながら悲慘に老い果てて死んでいくのが今の人間の姿である.

元來, 人間の心にはその限界が無かったし, 百年, 二百年だけではなくとこしえにまえもってみられる透視の能力と淸い心を持っていた.その心がまさにハナニムの心でいまのように自分の環境に從って樣樣に變ったり動いたりする愚かなものでは無かった.

◇ 元來, 人間は神であった

自尊心にさわれたとすれば怒ったりヒステリになったり不平に滿ちるということは’私’という主體靈にまきこまれている時である.この狀態がまさに惡魔の虜となっている時である.ところが,もともとの人びとの心はいまのように變りやすい感情的なものでは無かったのである.元來,人はハナニムであったが惡魔によって囚われた時,ふたえの心を持った人間に轉落してしまったのである.

その時より主體靈が變貌してもともとから持っていた’私’という主體意識の位置を占めていたハナニムの靈は押し出され,死亡の靈なる惡魔が私という意識の位置に座りこみ,惡魔が操る通りに動きながら悲慘に老い果てて死んでいくのが今の人間の姿である.したがって,この世の人びとは正確に言って惡魔の獄に閉ざされているハナニムなのである.

ハナニムは全知全能であり,この世の中はハナニムの絶對的な豫定の中で成っているものと語っている.今でも世の中は戰爭と飢餓,罪惡と苦みが絶え間なく續いているのにこんなわざわいも果たして全知全能のハナニムが豫定なさった攝理であろうか?これが事實であれば人間の全ての罪惡も豫定なさったものであり,その罪に對する責任も人間にあるのではなくハナニムが負わなければならないことになる.

まして,將來のことまで計り知っておられる全知全能のハナニムであるとすれば土を練ってアダムとエホバを作りたまわる際に將來にかれらは善惡果を取って食べ,呪われて死んでしまうことまではっきり知られたはずである.そうであれば,土を練りアダムとエホバを作りたまわる時,すてに悲嘆してやまなかったことであろう.

ところが,その時には見えるものはみんな‘善’であったとしながら後に洪水で審判をなさるときに至り歎息の中で人間を作りたまわったことを後悔なされたとのことであろうか? これは理屈に合わない話であるばかりでなく,人間を愛するハナニムではなくて人間を呪うハナニムにしてしまうことになる. 聖書の中には次のようなお話しがある.

“ 太初, 天地が混沌し,空虛の上に深い暗黑で包まれでいた”(創世記 1章2節)天地が混沌し暗黑に包まれていたとのことは,闇の神なる惡魔は太初から互いに大敵する仇であったが,ハナニムは全知全能のハナニムではなく, 惡魔と對敵しておりながら惡魔を完全に除去できないハナニムであった.善惡果が卽ちハナニムが除去できない惡魔の靈であった.

惡魔の靈はハナニムと對敵する靈であったが,ハナニムには打ち勝てなかった.

しかし惡魔は模倣力があった.聖書をみると惡魔が杖を投げて蛇になるようにすると,惡魔にかかった魔法師も杖を投げ同し蛇を作った.

ハナニムの靈に打ち勝とうと惡魔が模倣力を持ってアダムとエホバと同じ姿でハナニムの前に現れたので,ハナニムとアダムとエホバは何らの警戒心も持たないまま惡魔を見る瞬間,惡魔の靈に占領され捕虜になったのである.萬物の靈長の中でのハナニムが6000年間を惡魔の支配の中であらゆる苦痛を受けながら隱れておられだのである.

故にハナニムの念願のうち最も願ったのは一日も早く惡魔の獄から脫し, エデンの園 を回復するのであった. ハナニムが惡魔の獄から脫しようとすれば,仇の惡魔を殺さねばならないのに,ハナニムは惡魔を殺す秘訣が分からなかったのである. それて6000年間も惡魔の靈獄にいけとられ,あらゆる苦痛を受けたのであるが,ついに曺熙星の體の中で惡魔を殺す無敵將師に完成したのである.

◇ 惡魔の獄に圍まれているハナニムを釋放させる御業

した人はいなかった.今までの神學者たちは人間が死ぬと靈魂が離脫すると敎えている. 靈が生命であり,生命が血であり,血が體になるので,人間の體が靈なのである.(創世記9章4節,レビ記17章11節 ) 聖書には ‘種を植えた通り收める’と記した.‘人間はハナニムの子’と言ってやまないのは豆を 植えた所に豆が生え,小豆を植えた所に小豆が生える’との諺のようにハナニムの子はハナニムなのである.

この世の自然法則にも遺傳法則があるように萬物は遺傳法則を脫して生命の繼承が成された事はなかった.人間をハナニムの子といいながら人間を動物と考えるなら,これはハナニムに背く事である. 人間を動物のように考え,また生命を物質のように考える誤った思想を持つとすれば,それが卽ち獸の表出なのである.

◇ ハナニムはどこにおられるのであろうか?

しかし,좥私という主體意識좦 を持っている限り,人間の中のハナニムは惡魔の獄に圍まれておられるのである.今日 私と惡魔と死亡に打ち勝った勝利者ハナニムが人間の中に圍まれでいるハナニムを一つ一つずつ釋放させているのである.人間の中のハナニムを惡魔の獄で脫させようとすれば,勝利者のお話しとおりに順從しなければならない.

勝利者は惡魔の獄から脫した經驗があるので,その方法が分かっている.惡魔が眠る時,キ-を少しずつ削る事である. 續けて削る事によって結局,罪の鎖が切れるのである.惡魔がいくら强くても繼續して 좥私という主體意識좦,惡魔の靈を憎み,踏みにじり,また反對に生活すると結局,惡魔は死んでしまうのである.*だれでもハナニムの心だけは抱く事ができるのである.みなさんがハナニムの心を抱き生命をかけて動くとたちまち惡魔の世界は崩る.これを實行しないとハナニムの天地公事がしきりに遲延される.

飜譯: 尹金玉 記者

神の心を抱こう

今日,この世の人びとは人が死ねば靈魂が體の中から出て天空に上がて行くと考えている.これは間違った言葉である.なぜならば,人は死ぬ時に靈魂が死ぬことであって,また,生命が死ぬことであるからである.

◇ 酸素の中に神樣の靈が含まれている

人の靈が人の心であると聖書に記されている.心が靈なので生命が靈なのである.生命がない人は心がない.「私という主體意識」 が死者魔鬼である.これが死者魔鬼である.人が大變になる時とか難しいことに逢えば死にたい心が生じる.死にたい心は 「私という主體意識」 から始まるのである.だから,自殺するようになる.死者魔鬼が人の中にある生命の靈である神樣の靈を殺す.

人間の先祖が神樣なので神樣の血がわれわれの人間の中に流れているのである.だから,人間の體の中で生命の物質が放出される.人間の中で放出された生命の物質が溢れて出て空氣の中である.この世の中の万物が生きていることも人間の中から出る生命の物質を受け持って存在するのである.このようなことをこの世の中の科學者も, 歷史家も知らない.

◇ 中性子が神樣の靈であり,生命力の根源である

生命維持の秘密はここにある.空氣の中に酸素が人間から放出される生命の物質を吸收するようになる.だから,酸素の中に生命の物質が入っているのである.これをより細かく說明してみる.酸素原子は核と電子で構成されている.核の中に中性子があるが,中性子がまさに神樣の靈である.その中性子を中心にマイナス電子がぐるぐる回っている.

ところが,科學者たちは中性子を中心に電子が回っていると言うことは分るが電子が回る力はどこから出るのかは分らずにおのずから回って行くと考えている.皆さん! 世の中の理屈に考えてみてもおのずから出來ることがあるでしょうが?原因があってこそそれが動かれるのである.だから,回って行かせる生命力がまさに中性子から出ることである.

その生命力に乘って電子がぐるぐる回っている.科學者はわれわれの人びとが呼吸する時に酸素を吸收して生命が維持されて行くと話しているがその言葉は正確ではない.

酸素の中にあるその中性子の物質が人間の血の中にもある.だから,人間が呼吸をして酸素を吸收して生命を延長させていることである.

◇ 心は生命の花,生命があるので心が存在する

今日,この世の人びとは人が死ねば靈魂が體の中から出て天空に上がて行くと考えている.これは間違った言葉である.なぜならば,人は死ぬ時に靈魂が死ぬことであって,また,生命が死ぬことであるからである.

その生命がまさに人の靈である.靈が卽ち心である.心は人の生命によって作り上げられる.卽ち, 心というのは生命の花である.生命があるから心があることである.だから,生きている人だけが心があって死んだ人は心がない.

◇ 心を抱いたとおりに血が變わる

キリスト信徒が地球上に一番多くいるが,イエスを信じて永生を得た人は一人もいない.死んだ人びとは全て天國とか地獄に行くと噓をついている.天國と言う所が今までなかったのである.救い主が來られて天國を建設するようになっている.天國と地獄についてキリスト信徒と佛敎徒は正しく知らない.天國は生きて行く所であり,死んでから行く所ではない.

救い主がこの世に來られて天國に住むことが出來る資格者たちを作っている.私は神樣の心を抱けと言っている.心を抱いたとおりに血が變わるので,神樣の心を持つことになれば神樣の血に變わるのである.心を抱いたとおりに血が變わるという言葉をわたしは初めから言い續けて來た.ところが,このころ,アメリカの大學敎授が,心を抱いたとおりに血が變わると話している.

わたしがアメリカに行ってこの言葉を語った時にもアメリカの科學者が認めた.抱いた心とおりに血が變わるという言葉は眞理の學說であると應答した.我われ韓國に現れた救い主が,先進國の學者よりさらに先立った言葉を言っているが,その當時から認められなかった理由は韓國が後進國であるからだ.だから勝利祭壇に一年か二年通えばヒステリ-も腹立ちもなくなるのは本當に不思議だ.

きっと腹が立つだろう立場にいても腹が立たないのである.なぜなら,血が變わったからだ.だから,ある人は勝利祭壇に出たら馬鹿になったようだという.怒らねばならない時に怒らないので普通の人びとの心ではなく特異な人に見えて馬鹿だという.數百年,數千年經った死體は探すことが出來ない.だから人が死ねば消滅するという言葉が眞理である.

死んで來世があるというのは,魔鬼が人びとをごまかして,人びとを死ぬように死の門を開いておいたのである.人びとが死ぬまいと努めれば死なない樣になっているから,魔鬼はそれを知っていて,「死んで靈魂が天國,地獄へ行く」 という戰略を立てて樂な心で人びとが死ぬように仕向けた.それがまさに魔鬼が人を殺す作戰なのである.*

飜譯: 尹金玉 勝師

常に神樣に傾けて犧牲的な心で動く時, 神樣は恩惠を注いで下さる

いつも神樣の心,卽ち, 犧牲的な心,自分がこのようになろうが, あのようになろうが,自分が救いを得られるか,地獄に落ちるのかを考えず, 「神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい」 「この者を供え物にするからこの供え物を使って神樣のみ旨を成し遂げて下さい」 という心が信仰人の心と生活である.これが,天國に入ることが出來る資格者の心なのである.

◇ 密室で私の生活を證として話したことがある.

私は祈る時に 「私が勝利者になるように」 と祈ったことが一度もない.「私を地獄に投げてもよく,ゴミ箱に捨てても良いから,神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい.」 「あなたのみ旨を成し遂げる爲には,この私が犧牲の供え物になります」 「犧牲の供え物になる爲に足りないものがないようにして下さい.」 と一貫して祈った.

「神樣に私の全てを,生命と體と心を委ねるように」 「委ねることも私が委ねるのではなく, 神樣が委ねさせて下さい.」 と祈った.皆さんもこの話を聞いたことを思い出されるでしょう? ところが,その話を聞いた時は魔鬼が聞いたので重要に考えなかった.私が皆さんに再び言う意味は,今からは魔鬼の人が行なうことを中止して,神樣の人が祭壇に出て,神樣の人が仕事をして傳道もしなければならないからである.

「天に屬している人」 が傳道してこそその實が確かに結ばれることであり,「天に屬している人」 が傳道しなければ傳道も出來ない.魔鬼は實を結ぶことが出來ない.魔鬼は實を結ぶことが出來ないので,傳道する時, ‘私という我相が傳道せず神樣が傳道なさって下さいというように.「神樣がこの方を傳道なさって下さい」 といつも祈りながら傳道しなければならない.

◇ 神樣の心は犧牲的な心である

傳道が出來た時は 「傳道したのは私ではなく,神樣がなさったのでしょう」 「神樣が傳道なさり,率いて下さったことであり,私が行なったことではないのです」 という心情で傳道してこそ,その人の靈がだんだん育つのである.“私”が每日行なってみても靈は絶對に育たない.

卽ち, 皆さんが「天に屬している人」の立場に立って心を主管して生活して,禮拜する時にも,「天に屬している人」 が禮拜をしてこそ,恩惠を受けることであり,「魔鬼に屬している心」 で每日熱心に禮拜しても,絶對恩惠が行かない.ところが,「天に屬している人」は「天に屬している心」 を持っていることで,「天に屬している心」 というのは犧牲的な神樣の心である.

犧牲的な心が神樣の心であり,利己的な心は魔鬼の心である.だから,皆さんは神樣の心,卽ち 犧牲的な心を持って生活しなければならない.自分が救いを受けられるか,受けられないか,自分が天國に行けるか,行けないか,關係なく,“この者を犧牲の供え物にして神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい.” という祈りを以って一貫してこそ,これが,本物の「天に屬している人」 の祈りである.

犧牲的な心だけが救いを得ることが出來るのであり, 「私という主體意識」 をいつも持ち,利己的な考えを持って「私」 が天國に行こうという目的を持って信仰生活をすれば, その人は決して天國の門を越えて行くことが出來ない.

◇「神樣のみ旨を成し遂げて下さい」 と祈り續けてこそ

いつも神樣の心,卽ち, 犧牲的な心,自分がこのようになろうが, あのようになろうが,自分が救いを得られるか,地獄に落ちるのかを考えず, 「神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい」 「この者を供え物にするからこの供え物を使って神樣のみ旨を成し遂げて下さい」 という心が信仰人の心と生活である.これが,天國に入ることが出來る資格者の心なのである.

「神樣の爲に生き,神樣の爲に動かし,私が語ることごとを神樣に榮光を歸する言葉として考えて下さい」 という祈りを續けなければならない.いつも 「私という主體意識」 が誇らかに存在し,自分の優れていることを現す爲に話す人は魔鬼の靈が動いているから,神樣は絶對に喜ばれない.「祭壇に行きましょう」 と云ったとして神樣が喜ばれるのではない.

神樣は忠心なる 「犧牲的な心」 を喜ばれるのである.「私が動く一擧手一投足を神樣が率いられて,神樣が主宰され,神樣がご覽になり,正しい心靈に作って動かして下さい.」 と祈ったら神樣は喜ばれる.この道を行く人たちは犧牲的な心が下敷きになってこそ,この道を行くことが出來るのであり,利己的な心で祭壇に出る人はこの道を行くことは出來ないのである.

人に見える所には顔を出し, 自分が認められる事を目的として祭壇に通う人は決してその靈が育つことはない.だから, 神樣はいつも隱密に恩惠を下さり, 隱密に神樣の生命の眞液を注いで下さる.だから, 人の前では少しも眞の信仰者に見えずとも, 心だけは常に神樣に傾けて犧牲的な心で動く時,神樣は恩惠を注いで下さる.

◇ 神樣の心と一致させるように自分の心をチエックすること

皆さんが香臭をかぐとか,生水が連結される時にその生水を續けて連結される爲には,自分の心に神樣の心の狀態を維持させてこそ,その恩惠が續けて連結することである.だから,いつも神樣の爲にだけ生きなければならない.だから,自分の持っているお金も,自分のものではないから勝手に使うことは出來ないのである.

それを自分のものだと考えて勝手に使う者は決して天の人になることが出來ない.神樣に榮光を歸する爲にはそれに合う信仰的な姿勢がなければならない.それでこそ恩惠が絶えず連結するのである.隱密にみ業をなさる神樣は魔鬼が分からないように魔鬼の目を避けて恩惠を與えられるから,恩惠を受けても恩惠を受けた樣子をしてはならない.

いつも魔鬼を騙しながら神樣が恩惠を與えられるから,神樣が恩惠を隱そうとされるから,恩惠を受けた人が受けた恩惠を隱すのは當り前である.恩惠を少し體驗したとして,口を開いて隣に誇れば,二度恩惠は來ない.

◇ 神樣は隱密に恩惠を與えて下さる

神樣の心が搖り動かされてこそ恩惠が續けて連結されるのである.だから,私は神樣に體と生命と心全てを委ねたが 「委ねることも神樣が委ねて下さい,私は委ねることが出來ないのです.私が委ねようといくら努めても出來ないのです」 と神樣に切實な心で祈る時, その時に神樣が恩惠を與えられた.

だから,恩惠を受けても絶對に恩惠を受け素振りをせずにいつも恩惠を受けないような姿で生活をしなければならない.そのような態度と行動で神樣が下さるお恩惠を魔鬼が知らないように隱す生活をしてこそ,その恩惠を續けて受けることが出來る.だから, 恩惠を受ければいつも犧牲的な心がぎっしり滿ちてあるから,さらに神樣の恩惠が溢れ出るようになっている.

神樣の恩惠を受ける人は,自分を現さず,いつも自分を隱しながら,謙遜で犧牲的な生活で一貫するようになっている. 人びとの前で神樣の仕事をするのではなく,人が見ない時に神樣に忠誠をつくして,神樣に感謝する生活をする.自分を表わしたり誇ったりする人は, すでに世の中から賞を受けた人なので神樣が二度賞を與えられない.

隱密なところにいらっしゃる神樣の爲にだけ生きるそのような犧牲的な生活が皆さんにあってこそ, 恩惠の滄波の中で幸福な生を享受することができる.生活全てがまさに神樣の爲に生きている,神樣の爲にだけ犧牲になる健全な生活になってこそ,皆さんは神樣になって永生を得るのである.いつも犧牲的な心が心の基礎になって活氣に滿ち溢れて祭壇に出て禮拜をし,大聲で手を打って神樣を贊美しなければならない.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

勝利者になった人は祈ったとおりに成就する

過去を考えれば振り向く淫亂罪であると言われるので,過去を考えまいと心を碎いて努めたが,おのずと過去が思い出されるのでどうすることも出來なかった.結局, その高地に昇って勝利者になって後から, 負けて, また勝っては負けることを繰り返した.

◇ 皆さんは全て勝利された神の靈を受けたのである

今日,ここに集まった人びとの中で半分以上が勝利者になった.二番目,一律に勝利者達には誰の罪でも赦そうとすれば赦すことが出來,罪に定めようとすれば定められる權威を與える.三番目,靈の世界を支配する靈を私が持っているが,その靈を皆さんに與えた.

勝利者になることが出來なかった人びとにも神の勝利の靈を注いであげたから皆さんは全て勝利された神の靈を受けたのである.だから,皆さんが祈りさえすれば魔鬼が死ぬことを見ることが出來る.數百回負けてから再び勝った後にこそ本當の勝利者になることが出來る.卽ち,ここに立っている私が,1980年10月15日に勝利者になったのである.

◇ 勝利者になる前, 一回で勝ったのではない

勝ったこと,負けたことを何回も繰り返しながら,ほぼ1年半ほど繰り返したのである.私は密室から遠い所, 仁川まで步き回って傳道をした.

私に傳道された人びとは出會った途端, 火の聖神を受け, 癌が治るとか,いろいろな病氣が治った.だから,神が私と共になさるということを確信するようになった.

人間として勝つことが出來ない試鍊に勝って確信していたこのような時にイブ勝利者 (靈的な師) の長男が理由もなく私のほっぺたを握りこぶしで毆ったのである.

その日が10月14日であった.私は幼い頃から誰と競って負けたことがない.シルム (韓國式相撲) をしても, けんかをしても, 相手を毆りつけたことはあつても毆られたことはなかった.

そのような人であるのにほっぺたを毆られる瞬間,私は怒ることではなく, 反って神樣に 「ありがとうございます」 と心で言った.そのように心で言ったら私を毆ったその人が ‘尻に帆をかけて’ 逃げ出した.私が魔鬼の試練に勝って,ビンタを食わせた血氣魔鬼をそのまま殺してしまったからである.彼が, 私を毆る時には, 魔鬼の力でびんたを食わせたが,魔鬼が無くなればあえて私を毆ることは出來ないのである.彼は小柄で背丈も私より低かった.

ところが,私は毆られながら眼をつぶって祈っていたのである.「人間としては到底勝つことが出來ない試鍊に勝たせて下さってありがとうございます」 と祈ったら, 魔鬼の計劃と計略どおりに進まず, 反って魔鬼が一發で打たれて死んでしまったのである.そのように魔鬼が死ぬから,魔鬼の力を借りて私にビンタを食わした人の氣が拔けたのである.だから,後ろ向きになって力の限り逃げて行ってしまった.

◇ 勝利者になるまでは數百回 「勝った」, 「負けた」 を繰り返した

翌日, イブ勝利者が密室にいる家族達を全部庭に集まれと話された.そして,私を中に立たせて置いて「社長が勝利者になった」 と宣布された.私が, その話を聞いた瞬間 「私が勝ったのではなく,神樣が,私にお勝ちになりました」 と心の中で答えた.それで,イブ勝利者が 「また勝った」 と話された.そこで,「また勝ったのも神樣が,私にお勝ちになったのです」 と答えました.

過去を考えれば振り向く淫亂罪であると言われるので,過去を考えまいと心を碎いて努めたが,おのずと過去が思い出されるのでどうすることも出來なかった.結局, その高地に昇って勝利者になって後から, 負けて, また勝っては負けることを繰り返した.

「私」 が勝利者になれば人類に永生を得る道が開かれ,「私」 が負けたら全人類が死ぬ目に合うのであった.このようにして10月15日を迎え,私が完全に勝利者として完成したのだから, 神樣が踊りを踊るほどに喜ばれた.*

飜譯: 尹金玉 記者

魔鬼を誤魔化してこそ魔鬼に勝つことが出來る

‘自身を知り, 相手を知ってこそその爭いに勝つことが出來る’と言う,中國のソンム先生のお話がある.それは,きわめて正確なお話です.卽ち, 自身を知り,魔鬼を知ってこそ魔鬼に勝つことが出來るということです. 人間の中には二種類の人がいる.一つは神の性向の人, 神の人で,もう一つは魔鬼の性向の人, 魔鬼の人である.

◇ 人間の中には互いに別な二つの存在, 一つは神の性向でもう一つは魔鬼の性向の人です.

‘自身を知り, 相手を知ってこそその爭いに勝つことが出來る’と言う,中國のソンム先生のお話がある.それは,きわめて正確なお話です.卽ち, 自身を知り,魔鬼を知ってこそ魔鬼に勝つことが出來るということです. 人間の中には二種類の人がいる.一つは神の性向の人, 神の人で,もう一つは魔鬼の性向の人, 魔鬼の人である.

「私と言う意識」 でこの道を行こうとする心を持っている人は, 絶對にこの永生の道を行くことが出來ない.この道を「私という意識」 が步もうとする心を持っている人は,その人は絶對にこの永生の道を步むことも出來ず,「私という意識」は魔鬼なので, 絶對成就されることもなく, また, 天國も行くことが出來ず, 永生を得ることも出來ない.

自分が魔鬼の性向の人なのか,神の性向の人なのかを分別して知る爲には, 心をよく見れば分かる,自分が狡くていつも二重性格の心が動くなら,その人は魔鬼の性向の人である.正直ではなく表裏不同の人は魔鬼の人が中心になって生きるからそうなのである.自ら自分を誤魔化す生活をする人も,やはり魔鬼の人が中心になって生活するから,自ら自分を誤魔化すのである.

だから,魔鬼の人がこの道を行こうと思うなら,いち早く心を入れかえて,神の人が行くことが出來るように努力しなければならない. 魔鬼の人のまま,この道を行こうとすればそれは無馱な骨折りである.魔鬼の人のまま祭壇を通って達成する爲に, 祭壇を熱心に出る人が居る.そのような人は, 絶對にで救われない.

しかし,神の人はいつも犧牲的な心が心の低に下敷きになっているので,自分も知らずに犧牲的な生活を習慣的に行なうようになって居る.どうして私がこのようによく分かるかと言えば,救い主は完全な人だからである.救い主は知らないことがないぐらい知っている.皆さんが魔鬼の人なら,救い主を誤魔化そうとしても救い主は騙されるふりをするだけで騙されることはない.

騙されるふりをするだけです.魔鬼を誤魔化せば魔鬼に勝つことが出來るし,魔鬼を殺し無くすことが出來る .魔鬼を誤魔化すことが出來なければ絶對に魔鬼を滅ぼすことが出來ない.

だから,私が魔鬼をうまく誤魔化したから勝利者になった.魔鬼を誤魔化すことが出來なければ絶對に勝利者になることが出來ない.

皆さん,救い主が外觀では馬鹿のように見えても魔鬼の人と神の人が分別出來ないでしょうか?全てが出來る.だから,神の人にだけ甘露を注いで上げるが,魔鬼の人には絶對注いで上げない.

魔鬼の人に注いで上げればその人が死んでしまう.魔鬼を殺して無くす甘露であるから死んでしまうのである. だから, 魔鬼の人には注いで上げず神の人にだけ甘露を注いで上げる.

◇ 神の分別が上手であってこそ勝 利者になることが出來る

皆さん, 私は神の分別が上手だったから勝利者になったことで,神の分別が上手ではなかったら勝利者になることは出來なかった.人に會う時も, この人が魔鬼の人なのか,神に屬している人なのかを分別して接觸するべきで,それを分別もせずに接觸しては,反って魔鬼に飮みこまれてしまう.私は若い頃から魔鬼を分別して知っていた.23歲の時,濟州島訓練所の訓練兵時代に泥棒を捕らえた.

盜む現場を見ては居なかったが,泥棒の靈の臭いをかいで捕らえた.だから,中隊將は曺熙聖と言う人が鬼でもないのに,どうしてそれが分かるのだろうかと氣にしたが,決して秘密は敎えなかった.それを敎えてあげると神樣が離れてしまう.常に魔鬼を誤魔化すべきで,正直に話しては魔鬼に負けるようになっている.だから,最後まで誤魔化したのてす.

二十三歲の時, 私は, 誰が何の罪を犯かしているのかを分別出來った.信仰村の時から,每日夜明けの禮拜をした.私が,靈母樣の獄中發令を受けて,‘溫陽祭壇’に行ったら聖徒は三人しか居なかった.その三人を連れて傳道を始めた.聖徒達に每日夜明けの禮拜をさせた.每日夜明けの禮拜をすると每日禮拜をすることになったのです.每日禮拜をしろとダニエル書12章に書かれている.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

自由律法を守り一人一人が救い主になって

人 は神の子であり, 元來, 人が神であったという事實を何處で聞いた事があるだろうか. 人が神の子であったり, 人が神であったばかりではなく, この世の萬物は皆神であるのだ. このように人が神であり, この世の萬物が神であったが, 故に, 神であり得ない現在の人間に對して聖書に 「神の心を抱きなさい」 と記錄されており, 佛典には 「佛の心を抱きなさい」 と書いている.だが, なぜ 「神の心」 を抱き, 「佛の心」 を抱かねばならないのかを人びとは知らない.

◇ 露の聖靈を受けると永生の體に甦る

人は神の子であり, 元來, 人が神であったという事實を何處で聞いた事があるだろうか. 人が神の子であったり, 人が神であったばかりではなく, この世の萬物は皆神であるのだ. このように人が神であり, この世の萬物が神であったが, 故に, 神であり得ない現在の人間に對して聖書に 「神の心を抱きなさい」 と記錄されており, 佛典には 「佛の心を抱きなさい」 と書いている.だが, なぜ 「神の心」 を抱き, 「佛の心」 を抱かねばならないのかを人びとは知らない.

今, ここに, 誰にでも解るように易しく詳しく科學的に明らかに敎えている.「神の心を抱け」 とは, 「生命の木の實」 を食べよという言葉と同じであり, 「佛の心を抱け」 とは, 甘露を飮めという言葉と同じなのである. なぜなら, 聖書には, 「生命の木の實 」を食べてこそ永遠無窮に生きて行く事が出來ると記錄されており, 佛典には甘露を飮んでこそ生きて佛になる事が出來ると記錄されて居るからである.それ故, 「生命の木の實」 は神の心であり, 永生の確信なのである.

もし, 長く勝利祭壇に通ったといって新しく來た人にあれこれ使いをさせるなら, その人は無量大數の魔鬼が入っている人である. ここでは, 先に來た人は罪が多く, 後から來た人達は先に來た人よりずっと罪が少ないので, 先に來た人は後に來た人に指圖がましくあれこれ命令するのでなく, 今來た人達を神のように尊く思い, 神のように待遇しなければならないし, 心へりくだったあいさつをしなければならないであろう.

◇ 相手方を神の如く敬く使える時 救い主になる

勝利祭壇に集まる人びとは, 古い新しいというのではなく誰をも我が身のように思い, 誰をも神の如く敬って仕え合わなければ永生を勝ち取ることは出來ない. 私という存在が魔鬼であると知れば知るほど謙遜な生活をしなければならないであろう.神樣がある人をご覽になって, 余りに可哀想だと思われてこそ初めて救いを得る事が出來る. これがまさしく救いを得る秘訣である.

勝利者と云われる方が勝利された秘訣はこうである. 神樣からの哀れみを受け, 神樣の愛を受けられるようになったのは, 常に相手方を神のように思い, 仕え, 尊敬したからである.密室と呼ばれる所で鍊鍛をうけておられる時, ある人が理由もなく, 拳で無茶苦茶に, ピンタを張ったが, ただ, 有り難うございますと云った.

「神樣, このような試鍊に勝って下さって本當に有り難うございます」 と云う心を持つから, 相手方が却ってすまなく思い, 身の置き所がなくそのまま逃げてしまった. これがまさしく自由律法を守る秘訣であるのだ.勝利祭壇に來た一人一人が完全に自由律法を守れば, 全ての世界の人類が皆救いを得る事が出來るのである.

勝利祭壇ある所何處でも神樣が共にいますし, 何處にでも露が注がれる.勝利者の露が降り注がず 又, 降っている露も噓だ. 作り話だとすれば, 誰一人集まる者はなかろう.多くの人が每日集って來ると云う事は人間の力では不可能な事である. 一日二日は好奇心で集まりはしても, 眞理でなくてどうして仕事を投け打って每日座って居られようか, 疑う必要はない.

◇ 露を受けながら步む永生の道.

「私という意識」 が罪であり, 魔鬼の靈であるから 「私という意識」 が罪の根本になるのである. 人が死ぬのは罪 「私という意識」 の爲に死ぬのだから, 「私という意識」 がムカッ腹を立てるとか, イラ立ちが續くと死が早まっていく. どんな事があっても腹を立ててはならない.勝利祭壇に出てくれば腹も立たないようになってくる.

その理由は勝利祭壇に降りる神樣の露の惠みを受る爲である. 露の恩惠は尙に喜びと樂しい希望に滿ちるそのような心に作り變えてしまうからである. 一日も絶やさず露の降り注ぐ處は勝利祭壇以外にはない. ふき來る台風を防ぎ止め, 梅雨も止め, 韓國を豊年にし, 韓國で戰爭の勃發を防ぎ, 世界の共産主義を言葉どおり無くしてしまうなど, 有史以來このような快擧がただの一度でもあったであろうか.このような優れた能力をみても悟る事も出來ず, そう知りつつ, 近ずくことも出來ずにためらっているとしたら, 神樣は余りにももどかしく思われる事であろう.

神樣のみ心は犧牲的であり, 寬大であり, 大らかである. 一見, 腹の立ちそうな出來事も腹を立てずに超然としている人, 永生という大きな望みの中に生きているからである.永生を目的とし, 永生の望みを抱いて生活をすれば, かならず, 永生をする事が出來るのである. そのような人達は尙に犧牲的な生活をし, 心へり下った生活をしている.

今日からでも遲くはない. 永生の望みを抱き, 永生の確信をもって犧牲的な生活をなし, 世の中の光となって世界萬民を活かす救い主の役目を行い多くの人びとを永生の道に導かねばならない. 今日新しく出發し, 誰を神樣の如く敬いつつ永生の確信の中で生活し, 心に余裕をもって永生の道を步いて行けば, 行き着く處必ず永生に出會うのである.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

常に神樣に傾けて犧牲的な心で動く時, 神樣は恩惠を注いで下さる

いつも神樣の心,卽ち, 犧牲的な心,自分がこのようになろうが, あのようになろうが,自分が救いを得られるか,地獄に落ちるのかを考えず, 「神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい」 「この者を供え物にするからこの供え物を使って神樣のみ旨を成し遂げて下さい」 という心が信仰人の心と生活である.これが,天國に入ることが出來る資格者の心なのである.

◇ 密室で私の生活を證として話したことがある.

私は祈る時に 「私が勝利者になるように」 と祈ったことが一度もない.「私を地獄に投げてもよく,ゴミ箱に捨てても良いから,神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい.」 「あなたのみ旨を成し遂げる爲には,この私が犧牲の供え物になります」 「犧牲の供え物になる爲に足りないものがないようにして下さい.」 と一貫して祈った.

「神樣に私の全てを,生命と體と心を委ねるように」 「委ねることも私が委ねるのではなく, 神樣が委ねさせて下さい.」 と祈った.皆さんもこの話を聞いたことを思い出されるでしょう? ところが,その話を聞いた時は魔鬼が聞いたので重要に考えなかった.私が皆さんに再び言う意味は,今からは魔鬼の人が行なうことを中止して,神樣の人が祭壇に出て,神樣の人が仕事をして傳道もしなければならないからである.

「天に屬している人」 が傳道してこそその實が確かに結ばれることであり,「天に屬している人」 が傳道しなければ傳道も出來ない.魔鬼は實を結ぶことが出來ない.魔鬼は實を結ぶことが出來ないので,傳道する時, ‘私という我相が傳道せず神樣が傳道なさって下さいというように.「神樣がこの方を傳道なさって下さい」 といつも祈りながら傳道しなければならない.

◇ 神樣の心は犧牲的な心である

傳道が出來た時は 「傳道したのは私ではなく,神樣がなさったのでしょう」 「神樣が傳道なさり,率いて下さったことであり,私が行なったことではないのです」 という心情で傳道してこそ,その人の靈がだんだん育つのである.“私”が每日行なってみても靈は絶對に育たない.

卽ち, 皆さんが「天に屬している人」の立場に立って心を主管して生活して,禮拜する時にも,「天に屬している人」 が禮拜をしてこそ,恩惠を受けることであり,「魔鬼に屬している心」 で每日熱心に禮拜しても,絶對恩惠が行かない.ところが,「天に屬している人」は「天に屬している心」 を持っていることで,「天に屬している心」 というのは犧牲的な神樣の心である.

犧牲的な心が神樣の心であり,利己的な心は魔鬼の心である.だから,皆さんは神樣の心,卽ち 犧牲的な心を持って生活しなければならない.自分が救いを受けられるか,受けられないか,自分が天國に行けるか,行けないか,關係なく,“この者を犧牲の供え物にして神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい.” という祈りを以って一貫してこそ,これが,本物の「天に屬している人」 の祈りである.

犧牲的な心だけが救いを得ることが出來るのであり, 「私という主體意識」 をいつも持ち,利己的な考えを持って「私」 が天國に行こうという目的を持って信仰生活をすれば, その人は決して天國の門を越えて行くことが出來ない.

◇「神樣のみ旨を成し遂げて下さい」 と祈り續けてこそ

いつも神樣の心,卽ち, 犧牲的な心,自分がこのようになろうが, あのようになろうが,自分が救いを得られるか,地獄に落ちるのかを考えず, 「神樣のみ旨だけを成し遂げて下さい」 「この者を供え物にするからこの供え物を使って神樣のみ旨を成し遂げて下さい」 という心が信仰人の心と生活である.これが,天國に入ることが出來る資格者の心なのである.

「神樣の爲に生き,神樣の爲に動かし,私が語ることごとを神樣に榮光を歸する言葉として考えて下さい」 という祈りを續けなければならない.いつも 「私という主體意識」 が誇らかに存在し,自分の優れていることを現す爲に話す人は魔鬼の靈が動いているから,神樣は絶對に喜ばれない.「祭壇に行きましょう」 と云ったとして神樣が喜ばれるのではない.

神樣は忠心なる 「犧牲的な心」 を喜ばれるのである.「私が動く一擧手一投足を神樣が率いられて,神樣が主宰され,神樣がご覽になり,正しい心靈に作って動かして下さい.」 と祈ったら神樣は喜ばれる.この道を行く人たちは犧牲的な心が下敷きになってこそ,この道を行くことが出來るのであり,利己的な心で祭壇に出る人はこの道を行くことは出來ないのである.

人に見える所には顔を出し, 自分が認められる事を目的として祭壇に通う人は決してその靈が育つことはない.だから, 神樣はいつも隱密に恩惠を下さり, 隱密に神樣の生命の眞液を注いで下さる.だから, 人の前では少しも眞の信仰者に見えずとも, 心だけは常に神樣に傾けて犧牲的な心で動く時,神樣は恩惠を注いで下さる.

◇ 神樣の心と一致させるように自分の心をチエックすること

皆さんが香臭をかぐとか,生水が連結される時にその生水を續けて連結される爲には,自分の心に神樣の心の狀態を維持させてこそ,その恩惠が續けて連結することである.だから,いつも神樣の爲にだけ生きなければならない.だから,自分の持っているお金も,自分のものではないから勝手に使うことは出來ないのである.

それを自分のものだと考えて勝手に使う者は決して天の人になることが出來ない.神樣に榮光を歸する爲にはそれに合う信仰的な姿勢がなければならない.それでこそ恩惠が絶えず連結するのである.隱密にみ業をなさる神樣は魔鬼が分からないように魔鬼の目を避けて恩惠を與えられるから,恩惠を受けても恩惠を受けた樣子をしてはならない.

いつも魔鬼を騙しながら神樣が恩惠を與えられるから,神樣が恩惠を隱そうとされるから,恩惠を受けた人が受けた恩惠を隱すのは當り前である.恩惠を少し體驗したとして,口を開いて隣に誇れば,二度恩惠は來ない.

◇ 神樣は隱密に恩惠を與えて下さる

神樣の心が搖り動かされてこそ恩惠が續けて連結されるのである.だから,私は神樣に體と生命と心全てを委ねたが 「委ねることも神樣が委ねて下さい,私は委ねることが出來ないのです.私が委ねようといくら努めても出來ないのです」 と神樣に切實な心で祈る時, その時に神樣が恩惠を與えられた.

だから,恩惠を受けても絶對に恩惠を受け素振りをせずにいつも恩惠を受けないような姿で生活をしなければならない.そのような態度と行動で神樣が下さるお恩惠を魔鬼が知らないように隱す生活をしてこそ,その恩惠を續けて受けることが出來る.だから, 恩惠を受ければいつも犧牲的な心がぎっしり滿ちてあるから,さらに神樣の恩惠が溢れ出るようになっている.

神樣の恩惠を受ける人は,自分を現さず,いつも自分を隱しながら,謙遜で犧牲的な生活で一貫するようになっている. 人びとの前で神樣の仕事をするのではなく,人が見ない時に神樣に忠誠をつくして,神樣に感謝する生活をする.自分を表わしたり誇ったりする人は, すでに世の中から賞を受けた人なので神樣が二度賞を與えられない.

隱密なところにいらっしゃる神樣の爲にだけ生きるそのような犧牲的な生活が皆さんにあってこそ, 恩惠の滄波の中で幸福な生を享受することができる.生活全てがまさに神樣の爲に生きている,神樣の爲にだけ犧牲になる健全な生活になってこそ,皆さんは神樣になって永生を得るのである.いつも犧牲的な心が心の基礎になって活氣に滿ち溢れて祭壇に出て禮拜をし,大聲で手を打って神樣を贊美しなければならない.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

佛典と聖書には永遠の命·永生が記錄されている

佛典の涅槃經6卷に甘露は不死の藥であり,甘露を食べると死んだ命が生き返って壽命が延びるとある. 卽ち,甘露を身に受けると人が死なないと言う言葉である.また,涅槃經9卷には 「衆生達の中で大涅槃光 (甘露水) が毛孔に入る人は必ず佛道を成就するだろう」 と記錄されている.これは甘露を受ければ生きて佛になれるということであり,佛になるということは,死なないと言うことである.

◇ 全世界の万民が死なない時代が必ず來る

海印歌を始めとして,格菴遺綠全篇にも甘露を食べれば死が無くなると記錄されている.聖書にも,「あなたの露は光の露であって,それを亡靈の國の上に降らされるからである.」 (イザヤ書26章19節) 卽ち, 露を降ろす救い主が出現すれば死が無くなると言うことである.

佛典の涅槃經6卷には,甘露は不死の藥で甘露を食べると死んだ命が生き返って壽命が增すと記錄されている.(涅槃經8卷)それだけではなく,死が無くなりつつ,人が生まれることも段だん無くなる.若い人びとが結婚しても子が出來ない.今は終末という時期である.

成し遂げられる時が至った.子が出來るということが無い時代になった.死ぬ時代が勝利祭壇では終った.死がもう段だん無くなる.まず,勝利祭壇の家族達から死ななくなり,次に, 韓國人達が死ななくなり,韓國で死が完全に無くなる.

ある人は「私」の爲に心配して言う.「そのようなお話をおっしゃらねばよろしいのに…」しかし,私が話せば必ずその通り成し遂げられて來た.今まで,私が話したことが成し遂げられなかったことは一度も無い.だから,全世界の万民が死なない時代が必ず來る.

◇ 交通事故さえ起こらない奇跡が起こる

死が無くなることになれば韓國では交通事故が無くなる.交通事故が起こらなくなる.そのような驚くべき奇跡が起こる.そして,地球上で完全に死ぬことが無くなる奇跡が起こる.皆さんが,’ 珍しいね.この木はどうして枯れないのかな? この草がどうして枯れないのかな?このような言葉を言う時が來た.だから,この死の神を完全に掃除して無くしてしまうので死が無くなり,皆さんが死を目で見ることが出來ない時代が來る.

そして,これがどれぐらい歲月が流れて行って成り立つのだろうか?このように考えてみた人も居るが, 結局はその ‘ 不知何歲月 ‘ が殆ど近くまで來ている.殆ど到來したので今は成し遂げられる時になった.だから,準備をしていない人は熱心に準備をして永生の資格を備えるようにしなければならないでしょう?皆さんが熱心に祈って熱心に反對生活をして一日も速く神樣に成し遂げられねばならない.

だから,まさに皆さんが先導して死なない不死體,永生體になれば,全世界の万民も順番に死なない人になる.甘露は不死の藥であり, 甘露水が毛孔に入る人は必ず佛道を成就する.聖書には永生に對する話が多く記錄されている.

「あなたがたは,聖書の中に永遠の命があると思って調べているが,」 (ヨハネ福音5章39節)卽ち,永生があるから聖書を考察するのであり,永生がなければ聖書を考察しないと言う話である.

「僞りのない神が,永遠の昔に約束された永遠の命の望みに基くのである.」 (テトスへの手紙1章2節) 卽ち,ハナニムの神は,永遠の命の神であるから, 永遠の命を約束されたのである.故に,聖書から永遠の命·永生を拔けば聖書は生命がない本になってしまう.聖書だけに, 永遠の命·永生が記錄されていることではなく, 佛典にも記錄されている.

佛典の涅槃經6卷に甘露は不死の藥であり,甘露を食べると死んだ命が生き返って壽命が延びるとある. 卽ち,甘露を身に受けると人が死なないと言う言葉である.また,涅槃經9卷には 「衆生達の中で大涅槃光 (甘露水) が毛孔に入る人は必ず佛道を成就するだろう」 と記錄されている.これは甘露を受ければ生きて佛になれるということであり,佛になるということは,死なないと言うことである.

◇ 義人達からは甘露の光が出る

救い主の體から甘露が發散される.この甘露は, 魔鬼が持っている全權を奪うことが出來たから全知全能の權威を持っている.神樣が,1次に魔鬼に敗れてこの世が死の世に變わったが, その死の世に變わった魔鬼の世から魔鬼の全權を奪って永生の神樣の全權に變わられたので,もう死ぬことが無くなる.

これからは次第に死ぬことが無くなり,人びとが死のうとしても死ぬことが出來ない,木の壽限のように永遠に生きる時代が近かよって來るのである.私の體から出る甘露を心靈科學を硏究する敎授はオ-ラであると言う.人間の體からもこのオ-ラが出る.ところが,あまりにも弱いから一般のカメラでは撮れない.高周波を利用した撮影機によって撮ったオ-ラ寫眞をキイルリオン寫眞と言う.けれど,强く光が出るのは寫眞に撮れるようになっている.

私の體から出る甘露は寫眞に寫る.新しく祭壇に出る方たちが,甘露が果たして出るのかと疑いながら寫眞を撮れば寫るのだから疑うことが出來ない.今は, 甘露が以前にもまして更に强く出ている.だから,これが皆さんに降りるようになり,その甘露を受けた皆さんも微かな甘露の光が出始めるようになる.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

私自身が覺りを得た時, 先祖の靈も共に佛と化します

宗敎の根本目的は眞理俱現であり,卽ち,苦しみの中で踏み迷う人間を救濟する事にあります.しかし, 佛敎やキリスト敎などでは,生きている現世で人間を救濟する考えをせず,誰を信じれば死んで天國に行くとか,また極樂に行くとか云いながら,宗敎の本來の目的を喪失して安逸に陷っているのです.人間は今直ちに苦しみの中から拔け出すことの出來る何かが必要です.

◇ 心がけどうりに血が變化する

宗敎の根本目的は眞理俱現であり,卽ち,苦しみの中で踏み迷う人間を救濟する事にあります.しかし, 佛敎やキリスト敎などでは,生きている現世で人間を救濟する考えをせず,誰を信じれば死んで天國に行くとか,また極樂に行くとか云いながら,宗敎の本來の目的を喪失して安逸に陷っているのです.人間は今直ちに苦しみの中から拔け出すことの出來る何かが必要です.

旣存のすべての宗敎は苦しみと惱みの中で喘いでいる人間に正しい方向提示をせず,かえって誤った價値を注入させるために現人類が危機に置かれる狀態を作るのに先き立ったのです.だから,私はこの世には學問も宗敎もなかったと云っているのです.ひたすら無馱な妄想を强要する僞宗敎の奴隷狀態の中から拔け出すことが出來なかった者が今の人類なのです.

死んだ後に天國に行くという宗敎はすべてが僞宗敎であり,そのことを敎えて善良な人びとからお金を取ることは詐欺です.この世のすべての宗敎がこのようであるから,眞の宗敎がないと云うことです.生きている現世を天國に作らねばならず,死にかけている人間を死なないようにすることが眞の宗敎でなのです.眞理は變わらないものなので,變わる全ての中には眞理は含まれていないのです.

人間が死ぬこともなく變わらない身體に變わってこそ, まことの眞理が具現されるのです.聖書は人間が永生することが出來るとはっきり論じています.人間が永生體に變わる時に眞理が具現されることで宗敎が完成されるのです.だから,人間が死んで靈魂が身體を離れ天國や地獄に行くと云う言葉は雲をつかむような臆說に過ぎないのです.

人間の身體がすなわち靈魂です.身體を離れて靈魂は存在しないのです.これを聖書的にまた科學的に私は論じています.聖書に は 「生命が靈である」 (ヨハネ1章1:4)と書かれています.また,箴言4:23には 「生命の泉は,心から流れ出る」 と云い,生命がすなわち心であると記されています.また,「血がまさに生命である」 (レビ17:11) 「生命である血のままでその肉を食べてはならない」 (創9:4)と書かれているように血がまさに生命なのです.

血が肉と體になるので,身體が死ねば生命が死ぬことです.だから,靈魂=生命=心=血=身體になります.血の作用がすなわち心と云うことは, 血液型のA型の人は性格がきちょうめんで,B型の人は社交的で,O型の人は强情で過激な性格を持っていると云われている事から見分けることが出來ます.

狐のような顔つきの人は狐のような仕業をし, いたちのような顔つきの人はいたちのような仕業をします.このように心がまえによって血が變わって顔付きも變わります.よく怒ったり心配を多くすれば顔にシキが出來,顔つきも變わります.魔鬼の心を抱けば魔鬼の顔になり,神の心を抱けば神になるのです.

◇ 死んだ人の靈魂は子孫の中にいます

身體はすなわち生命であり靈魂であるから,一人の人間が死ぬ時,その身體は死ぬが靈魂はその人の子孫の中にもあるので,その子孫の中でその人の靈魂は生きているということです.死んだ先祖たちの靈魂がまさに生きている子孫の中にいるということです.卽ち,死んだ者の來世がまさに生きている人の現世なのです.靈魂が別の處に行っているのではありません .子孫の中に死んだ者の靈魂が全て入っています.だから,子孫が立派になれば先祖も立派になるのです.

子孫がよく食べると先祖がよく食べるということになります.死んだ先祖の祭を別に行う必要がなく,子孫がよく食べればよいと言うことです.イエスが生きている人びとに “墓のような人生たちよ”と話したのは,生きている人の中に死んだ人たちの靈がうようよしているので墓だと言ったのです.“わたし”が考えていることは,實際は死んだ人たち,卽ち魔鬼の塊が考えていると言うことが出來ます.

そして,その魔鬼たちが率いたとおりに動く場合が多いのです.だから,人が罪を脫いで義人になれば死んだ先祖たちもすべて救われるのです.自分の血の中に先祖たちの靈があるので自分が神になれば先祖たちも全て神になります.佛典にもこのような句節があります.

「もともとの心を取り戾してこの自分が佛樣になれば先祖も自然にそのようになるので,生きている人も,死んだ人も全てが佛國土に入ることを…」 と.だから,自分が罪を無くし輪廻の車輪の中から拔け出したとしたら,死んだ先祖も全て佛樣になるから,これこそ最大の親孝行になります.皆さんが勝利祭壇に出て,生き彌勒佛, 正道令, 救い主である私に會うことが出來るのは皆さんが立派であるからではないのです.皆さんの身體の中の先祖がこちらへ率いて來たのです.

だから祖先代代の三代が積德を施した一家の子孫でなければ生き彌勒佛に會うことも出來ず, その名前を知り得て唱えることは出來ないと涅槃經,格菴遺錄に書かれています.釋迦三千年後に彌勒佛樣がこの世の中に現れて20年も過ぎているが,まだこの事實を知らない人が大部分であるからこの話は事實なのです.

ところが,佛敎では人が死ねば彼が作った業報によって牛になったり, 鳥になったり, ほかの獸になったりすると敎えているがこれは,誤った言葉なのです.人が死んで別の獸になることではなく,彼の靈魂が子孫の中に入ることなのです.だから子孫が先祖たちの顔付きと性格などに似ているようになっているのです.

また,先祖が犯した罪も遺傳されるのです.だから,自分が犯した罪は必ず罰を受けるようになっているし,自分が積んだ德行も必ず報償を受けるようになっています.當代に受けなければ子孫が必ず受けるのです.ところが,子孫の身體の中に先祖の靈がいるので, 子孫が苦しめられれば, 先祖も一緖に苦しめられるようになっているし,子孫が立派になって嬉しい時, 先祖の靈も一緖に喜ぶことになるのです.

◇ 人の中の惡いところを除去して天地開闢のみわざをする

“この世が大變つらい”と言い,死ねば樂ではないだろうかという心を抱いて自殺をする人がいます.しかし,死ねば終わりという考えは勘違いなのです.自分が死ぬことによって全てが終わることではないのです.死ぬことが卽ち地獄です.死んだ後の苦しみは言葉では表現しがたいほど辛いものです.自分の靈が息子の中にいるのに,その息子が自分の望む通りに動いてくれないことです.

それは言葉に言えないほど息苦しいのです.言えないほどの苦しみと惱みと心の傷の中にいるものが死んだ人の靈なのです.だから,どんなにしてでも死んではならないのです.ところで,子孫の中で誰かが解脫して永生身體に變われば死んだ先祖たちの靈がすべて生き返った事になるのです.だから,我われの先祖たちはどのようにしてでも代を繼ごうと心を碎いたことです.

自分の血が跡絶えることなく子孫代代に續いて行きその子孫が彌勒佛に會って解脫する時,自分も共に解脫しようとする念願が下敷きになっていることです.涅槃經を見れば,釋迦が入滅三千年後 (正確に三千七年) 彌勒佛が降臨されるので, 東方の朝鮮の地に羊の年に來られ,また曺氏の名前で來られると記錄されているのです.彌勒佛が來られたら,全ての衆生を解脫させ,全て佛と成させ, 地上佛國土,地上天國を建設し, その中でもはや死ぬことなく永遠に生きるようにすると言う內容が書かれている.

また,その時は全ての衆生が生老病死の輪廻から拔け出すので再び生まれることもなく,死ぬこともないと記錄されている.今,生き彌勒佛である私が死を滅ぼしています.人が死ななくなるから子孫を殘すという切實さもなくなり,子供を生む必要が無いのです.誰でも佛になれば男性と女性の區別が無くなります.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修

自分の對象者に愛で勝ってこそ

盡力して,努力することがあってこそ變化が現れる事であって, 盡力して努力することがなければ變化が起こらないのである.心を碎いて躍起になってこそ成し遂げられるのである.生活の中で,家庭で勝たなければならない.家庭で自分に勝ち續けて, 家族達が心から尊敬するほどに律法を完全に守る生活を續ける時にようやく勝利者になる.

「お主, 神樣, 深く知るこの驚くべき恩惠, 天國の樂しみが每日新しい」この贊美歌を, いつも歌って, また歌い,また歌っても私にはその贊美歌が一瞬一瞬新しかったのである.だから,贊美歌を夜通し歌っても一時間も歌ってはいなかった感じであった.贊美歌を歌い終わってみればもう夜明けになり,贊美歌をまた歌い終えてみれば日が旣に暮れていた.

いつ日が暮れるか,いつ夜が明けるかが分からないほど,いつも喜びと樂しさの中で暮らすのである.誰も知らないこのような喜びの中で,喜びの思いに浸って暮らしたので,瞬く間に1年,10年,50年が過ぎた.これは, 神樣の恩惠,神樣の聖靈を受け取った者でなければこの喜びを語る事が出來ない.

◇ 話の中には意味があるが,その音聲の中にさらに大きな意味がある

犬は犬の考えで犬の聲を出し,牛は牛の考えで牛の聲を出す.だから,犬に幾ら良い說敎をしても, 犬は犬式で聞く.自分の主體靈,卽ち,犬のような主體靈を捨てなければ神樣のお話を聞き分けることが出來ない.この眞理を理解することが出來ないのである.

だから自分の主體靈が神樣の靈であるか,魔鬼の靈であるかによって聞く段階が違い, 聞く方法が違い,また,その考えが違うのである.だから,完全に委ねなさいと言うのである.神樣に完全に委ねると,神樣がその魔鬼の靈である自分の主體靈を殺して,神樣の靈を注いで下さるのである.その後にもお話を聞けば,そのお話があまりに言妙で, 自分自身も知らずに感嘆する.

そのお話に意味があるのではなく,音聲の中に意味があるのである.神樣の靈を受けた者は,音聲の中でもう深い意味に氣づくのである,だから,魔鬼の靈を持っているものは如何に聞いて見ようとしても聞くことが出來ない.だから,完全に委ねようと心を碎いて躍起にならなければならないのである.ところで,神樣に委ねることを自分で委ねてはいけません.

「わたし」という靈が魔鬼の靈であるから,自分が委ねようとすることは, 魔鬼が委ねようとする事になるのでいけない.わたしも初めは自分が委ねようと心を碎いて躍起になったが成就しなかった.だから最後には「神樣が委ねて下さい.神樣が泣き叫ぶお祈りにして下さるようお願いします.そして,私が祈るのではなく,私が望むのではなく,神樣が祈って下さい.神樣が泣き叫んで下さい.神樣が完全に委ねて下さい」と祈ったのである.

このように泣き叫んで訴えるにもその段階がある.1段階に訴える段階があって,2段階,3段階の段階があって,續けて4段階,‥‥‥9段階,10段階の訴える段階がある.

だから,その訴える段階によって訴える主體靈が變わるのである.このような靈の段階が分からない者,靈の分別が出來ないものは,いくら努めてみてもだめである.

盡力して,努力することがあってこそ變化が現れる事であって, 盡力して努力することがなければ變化が起こらないのである.心を碎いて躍起になってこそ成し遂げられるのである.生活の中で,家庭で勝たなければならない.家庭で自分に勝ち續けて, 家族達が心から尊敬するほどに律法を完全に守る生活を續ける時にようやく勝利者になる.

今,皆さんが確かに知るべきことは, 皆さんの對象者がまさに皆さんの夫やら夫人であるというのです.皆さんは皆さんの對象者に勝たなければならない.家庭に對象者がいて職場にも對象者がいる.職場に行けばなんとなく嫌な人がいるが,彼が卽ち對象者なのである.

その對象者に勝たなければならないが,拳で戰って勝つことではなく,愛で勝たなければならない.眞心からその人を愛し, その人が夕飯を買えと言えば買ってあげ,晝飯を買えと言えば晝飯を買ってあげながら. 下男のその又下男の役目をしなければならない.そのようにすれば, まさにその人に勝つようになって勝利者になるのである.その對象者が皆さんを心から尊敬することが出來るようになってこそ勝利者になるのである.

◇ 私を憎む相手を眞心から尊敬することが勝つ秘訣

對象者は多くはない.自分の周圍に一人か,二人が居るのである.だから,その對象者を探して勝たなければならない.妬んで嫉妬していた人が眞心から皆さんを尊敬して好きになった時に勝ったことになる.勝ったなげればならない.皆さんが實際に家庭で勝ち,社會で勝ち,又, 祭壇に出ても勝たなければならない.祭壇にも對象者はたくさん居ることである.

どうしてそうなるのか,見ただけで食欲が無くなるほど憎い人がいる.このような不滿な考えは「私」という意識の魔鬼がなす業である.だから,憎い相手を心から尊敬して心から愛すれば「私」という意識の魔鬼は死ぬのである.これが,まさに恩惠を守る秘訣であり,「私」という意識の魔鬼を殺す秘訣なのである.對象者は遠いところに居るのではなく,近い所にいる.

だから,一番近い人,その人が卽ち對象者なのである.その對象者に勝つとき,彼と完全に友達になったとき, 私ではなければだめだというほどになった時が勝ったことになる.皆さんが言葉だけで“信じます”“自由律法を守ります”というのはむだである.對象者があちら,こちらにいる事はまさに自身の中の魔鬼の爲であり,自分の中に魔鬼がなければ仇はいない.憎い人が居なくて全ての人が好きになるのである.自分の中に魔鬼がいて,その魔鬼が相手の中に入って私を苦しめるのである.

「あいつは何時も私を嫌がる」とか,「あいつは何時も私の缺點をあげて言う」と目でにらみ付けると,それからは更に大きな魔鬼が自分を苦しめて困難にさせようと振舞うのである.このような魔鬼に勝つ秘訣は勝利者だけが知っている.勝った者ではなければ勝つ秘訣は分からない.

では, 勝利者はどのように勝って來たか.口を閉じて耐え拔く事だけをしたのか.そうではなく,愛で對象者に勝ったのである.對象者と一緖にはたらく時, 對象者に力が要る時には力になってあげ,又, 對象者がしなければならない仕事を代わりに骨を折ってはたらいてあげたりした.愛に死なない魔鬼はないのである.

◇ 勝利者の靈は常に謙遜で犧牲的な靈である

永遠無窮に榮光を享受しながら生きるものは”わたし”という意識ではなく,まさに犧牲の靈,良心の靈,神樣の靈なのである.良心の靈が共にしてこそ永遠無窮に生きることが出來るし,自分しか知らない利己的な靈は永生することが出來ない.これは魔鬼の靈であるからである.

譽められることを望む靈,榮光を受ける事を望む靈,自分の利益しか知らない靈,このような靈は滅亡の靈である魔鬼の靈なので永生を受けることが出來ない.だから,神樣のために何時も犧牲的に, 又, 奉仕的に暮らす人が永生を得るのである.

今日,神樣の爲に何をするか,今日は何を以て神樣にその恩返しをするかという考えでぎっしり滿ち溢れている人は,自身も分からないうちに神樣の爲の行動をとるようになる.また兄弟が誤って永生の道から遠くなろうとする時, 密かに力を與えて神樣の前に傾くように手傳ってあげるのである.このように神樣に向かった忠誠心が滿ちているので,自ずからそのように動くのである.*

飜譯:尹金玉 勝師
藤田多惠子 勝師 監修